いつからこんなに殺伐としたのだろう
鉄道ファンを巡る"極私的"考察

鉄道とビジネス vol.2

 大学生になった息子がいるのだが、いろいろと経緯を考えたうえで、疑義に堪えない。

 堪えない、というほどオオゲサな事ではないけれど、我が身をかえりみて割り切れないという思いがある。

 なぜ男の子は、鉄道が好きなのか。鉄道にはまってしまったのか。

鉄道ファン 廃止車両に群がる。「撮り鉄」と呼ばれ、他に「乗り鉄」「時刻表鉄」など細分化されている

「あなたのせいでしょう」と妻は云う。ずっと云われてきた。

 一理あることは認める。

 たしかに、物心がつく前から、それどころか何とか哺乳瓶をホールドできるかどうか、いや全然できない、というような頃から、酔っ払っては積み木のレールだの貨車だのを買ってきては、息子の枕元にブチまけたのは確かである。その点については、逃げも隠れもしない。

 ただし、ブチまけたのはレールと機関車だけではないのだ。

 ミニカーも飛行機もブロックも積み木も、縫いぐるみも、絵本もゲロも(おっとっと)、ブチまけてきたのである。だいたい父親などというものは、財布以外には何の頼りにもされず、いや、往々にして財布ですらまったく頼りにならず、思い余ってフライングしては、家族からいよいよ信頼を失うという愚挙を繰り返していく哀しい存在なのである。

 とはいえ、この「哀しみ」は、「なぜ男の子は、鉄道が好きなのか」という問いの答えになっていない。

「鉄女」なるものは敵対する存在

 だいたい、自分の事を棚にあげて云うけれど、「好き」になり方がおかしい。もう少し、何というか、爽やかに、晴ればれとした享受の仕方をすればよさそうなのに、どうにも鉄道マニアどうし、仲が良くない。ごく限られた連れは別として、会津と薩摩の剣客―そんないいもんじゃないか―みたく敵愾心を燃やしている。

 時刻表ばかり見ている奴、車両の写真を撮る奴、ローカル線を一駅ずつ降りる奴、弁当を片端から食う奴、備品などをかっぱらってくる奴、模型にしか興味がない奴等々、ジャンルも多岐に亘っていて亘っているぶんだけ、みんな仲が悪い。こう、何というか統一しようというか、総合しようというような気運がまったくない。

 新橋にある、鉄道趣味の店なんかに行くと―いい年して行くなよな―、古い切符を漁る奴、ブリキの標識を吟味する奴、昭和三十年代の時刻表を片端から捲る奴、鉄道模型を凝視し続けている奴という具合で、神聖ローマ帝国に侵略された当時のイタリア都市国家群の頽廃を彷彿とさせる。

 というほどの大げさなものではまったくないのだけれど、その、世間との大きなズレと、ズレをものともしない確信犯的な振る舞いには言葉もない。

 彼らにとっては、一部メディアで取り上げられている「鉄女」なるものは、旧ソビエトの女スパイよりも現実味のない、敵対する存在であろう。「女に鉄道がわかるわけがない」と、嘯いてはばからない。いやはや。だからモテないんだ、と云いたいところだが、そもそもモテたいと思っていないのだから、仕方がない。

   ∴

 鉄道ファンが、細かく分かれたのは何時ごろからなのだろうか。

 想像するに、鉄道と社会との接点が、ファンが鉄道と接触できる領域が縮小していく過程で、ある種の原理主義―大仰ですね。しかし『撮り鉄でダイヤ大混乱』なんていう見出しを見ると、そう考えざるをえない。なんでそこまでして、鉄道員に迷惑をかけて写真を撮影しなければならないのか、その切迫感に納得できない―が生まれてきたのだと思う。

 かつては、そんなに血走ることなく、いくらでも鉄道と接する機会があった。

 たしかに、昭和五十年前後、蒸気機関車が退役していく時期、さらにはそれにつづいて、在来線が合理化のなかでつぎつぎと廃線になっていく過程のなかで、過熱したブームのごときものがあったし、私もミノルタXE―篠山紀信さんが、CMに出ていた。

 当時は『GORO』の全盛期でもありました―を担いで写真を撮りに行ったこともあるけれど、こんなに殺伐とした、新聞種になるような盛り上がり方はしなかったと思う。いや、してたかな。今度、原武史さんに確かめてみよう。

 思えば、私は、鉄道文化的には最も豊かな時代に少年時代を過ごした。昭和三十五年に生まれたので、東海道新幹線に開業後すぐ乗ることが出来た一方、実家のあった田端の操車場では、C11などのタンク蒸気機関車が引き込み線の主力として働いていた。

 当時は、まだまだ、鉄道が国内物流の主役だった。田端から尾久にかけては、都内でも有数の貨物列車の集積地で、一日中、機関車が走りまわり、三交代制で働いている鉄道員たちは、早朝から附近の立ち呑み屋で、酒臭い息を振りまいていた。その息吹も含めて、鉄道の全盛時代だったのだ。

 田端の機関庫周辺には、よく遊びに行った。機関車の方向を変える転車台がいくつかあって、終日、眺めてあきなかった。

 田端大橋の上からは、タンク機関車が、貨車を一台ずつスロープへ押し出し、転轍機の操作で、それぞれの行き先に振り分けるのを見ることができたし、二キロ近くある、尾久の操車場の下を潜るトンネルを、自転車で走り抜けることも出来た。

 明治通りを走るトロリーバスにも乗ったし(これは鉄道ではありませんね)、幹線道路には都電が走っていた。九州の祖父母の元に帰省する時にはブルートレインの「さくら」の寝台に睡り、在来線はすみずみまでのネットワークを維持していて、軽便鉄道もまだまだ残っていた。

 鉄道模型でいえば、銀座の天賞堂は、今のように宝飾・時計部門と模型部門を一緒の店舗にしていなくて、模型部門は別の店舗を西五番街に構えていた。精巧な真鍮製の機関車の模型は、子供の胸にも率直に飛び込んでくる、具体的な美を発散していた。

 当時、都内の主要なデパート、たとえば日本橋の高島屋や三越、池袋の西武には、ドイツ製メルクリンのHOゲージの大きなレイアウトが設置されていて、そこに貼りつくのが楽しみであった。

   ∴

 もちろん、このような話をしても、現在の状況がどうなるものではない。鉄道会社はそれぞれファンのために、いろいろな工夫をしているのだろうが、マニアという生き物はそうしたサービスをどうしても、はみだしてしまうものなのだろう。

 現在も地下鉄、私鉄の複雑な相互乗り入れなどが行われており、そうした、地味だけれど凄いものに昂ぶるマニアは大勢いるに違いない。

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