劉暁波の死を「完全削除」した、中国政府の非情なネット統制

国民の怒りはもう抑えられない
古畑 康雄 プロフィール

「劉暁波を決して忘れない」

だが劉暁波の死は中国社会に何も変化をもたらさないのだろうか。前述の友人も「人々はやがて劉暁波のことを忘れてしまうのではないか」との問いに、「決して忘れることはできない。今は声を上げられないだけだ」として、こう答えた。

「このような(不満の)種は未来の民衆革命の中で爆発点となるだろう。人々の怒りは火山のように(怒りや不満が蓄積し)いつか(噴火する)その日が来るだろう。政府はその日その日をやり過ごして、目の前の太平を取り繕っているだけだ」

この友人が自分の考えに近いと紹介してくれた在米民主活動家、楊建利はツイッターで次のように論じている。

 

「劉暁波がやろうとしたのは、独裁専制を終わらせようとしただけではない。中国の歴史における暴力の循環を断ち切ろうとしたのだ。彼の切り札は自らの命であり、武器は愛、善良、誠意であり、権力を持たない者の力だ。強大な政権に対し、彼は身に寸鉄も帯びていなかったが、強大な同義、思想、人格の力を有していた。このような人を殺害することはできない。彼は復活し不滅であり、我々から離れることはない!」

天安門事件での学生運動のリーダーだった王丹も香港メディア「蘋果(リンゴ)日報」に発表したコラムで次のように書いている。

「劉暁波の死は我々に1つのことをはっきりさせた。それは人々が認めたくない事実だ。つまり、中国共産党にとって、最も温和な主張も、憲政民主を基礎にしている限り、受け入れられないということだ。主張がいかに温和でも、それを主張する人がいかに善意を伝えても、共産党にとっては『国家の敵』であり、必ずや死に追いやらなければならないのだ」

「これは何を説明するか? 共産党が自ら政治改革を主導すると期待する人、経済発展が一定の段階に達すれば共産党は民主化へと向かう判断をするだろうとの判断、習近平が開明的な専制政治を行うとの期待、これらすべては完全な誤りで、極端に幼稚であり、さらには無知だということだ。劉暁波の死は、再びこのことを証明した」

「尊敬される国になった」とは言い難い

そして彼は次のように書いている。

「劉暁波の死は中国台頭の転換点となるだろう。経済の高成長というイメージにより全世界の人心を買収しようとした共産党は、今後長い間、劉暁波の死という重荷を背負うことになり、そのイメージは大きく傷つけられ、その気炎はくじかれることになった。だがこのために支払った対価は劉暁波の命であり、あまりにも重い、時代の悲劇だ」

習近平政権は天安門事件に加え、劉暁波の非業の死という二重の道義的責任を負うことになった。中国はここ数年、大量の資金を投じて「軟実力(ソフトパワー)建設」(イメージアップ)に力を入れ、国際社会に中国の価値観を輸出し、認めさせるよう努力してきたが、王丹が言うように、今回の事件はその努力を大きく損なう結果になった。

中国は軍事力や経済力を誇示することはできても、ソフトパワーや政治的な価値観でもって世界の人々から尊敬される国になったとはとうてい言い難い。

中国は自らの統治モデルへ自信を強め、民主化の要求を「西側の策動」などとして拒んでいる。

これについて在米の政治学者、裴敏欣(Minxin Pei)はこのほどフィナンシャル・タイムズ(中国語版)でのインタビューで「人類の発展の角度からみて、どの制度が最も成功と言えるだろうか。成功とは最大の人が最大の特恵と最大の安全、最大の幸福を得られることだ。現在は依然として自由民主主義体制と市場経済体制だ」と指摘している。

習近平政権が政治改革に尻込みし、現体制の維持のためにあらゆる思想を抑圧し続ける限り、国内、国際的な緊張関係は強まるだろう。裴敏欣は「中国共産党は政治改革のリスクを高く見積もりすぎており、政権を維持できる能力を低く見積もりすぎている」と指摘している。

本来ならば実現可能である民主改革を温和な言葉で語った劉暁波を再評価、受け入れる道は、中国の政治空間にもはや残されていないのだろうか。

ただ中国国内に次のような声があることも最後に指摘したい。前述の友人は筆者との対話で最後に次のように語った。「劉暁波こそ、我々中国人の誇りだ。彼がいなかったら、中国人は世界に対し面目を失っていただろう」。

共産党政権が劉の思想や平和的な自由民主の発展の道を受け入れ、劉を中国人の誇りとして受けいれられる日こそ、中国の人々が言論の自由を享受するとともに、世界が中国の発展を心から許容し、平和的共存が可能となると言えるだろう。