2016年の冬、編集部に一本の電話がかかってきた。
「ちょっと、内密にご相談したいことがありまして……」
そう話し出した相手は、さる高名な芸術家の遺族だという。
「実は、父が遺した遺品を整理していたら、大量の写真が出てきたんです」
「写真、ですか?」
「はい。たぶん、とても貴重なものだと思うのですが、私たちではどうしたらいいのか、手に追えなくて……」
いったい、どんな写真なのか。面会の約束をした当日、編集部に運ばれてきたのは、B4用紙が入るサイズの分厚いファイルで10冊分にもなる資料の束だった。
両手に大ぶりの紙袋を提げた相手は、「これでも、まだ一部なんです……」と困ったように笑った。
ファイルのひとつを手に取り、会議室のテーブルに、その中に収められた古い写真を並べた私たちは、思わず息を飲んだ。最初に出た一言は、
「これ、表に出して、いいんですか?」
それが、長年、世間に知られることなく、芸術家が丹精込めて蒐集してきた、完全秘蔵のプライベート・コレクションとの出会いだった。
遺族の好意で、編集部はこのコレクションを独占的に掲載する許可を得たが、持ち主の本名は明かさないことが条件だったため、仮称として、その貴重な史料の数々を「鷲尾老人コレクション」と呼ぶことに決めた。
この「鷲尾老人コレクション」の中でも、とくに衝撃的だったのは、明治・大正に撮影されたヌード写真の数々だった。
『卵白写真』と書かれたメモがついた一群の写真は、日本に写真技術が伝来した頃から昭和初期まで使われ、戦後に衰退した、たまごの白身を使って感光させる「アルビューメン・プリント」のことだと考えられる。1850年にフランスで発明された技術だ。
かすれたセピア色に変わった写真に収まった女性たちの姿は、食文化が西洋化する以前の、古き良き「大和なでしこ」のもの。ふくよかな身体つきではあっても、肩幅は狭く、起伏が少ない、やさしげな姿をしている。
これらの写真を見た、性風俗史研究家の下川耿史(しもかわ・こうし)氏は、こう話す。
「カメラを持てば、きれいなモデルのヌードを撮ってみたいと思うのは、ごく自然な感情でしょう。明治・大正期にも、裕福な旦那衆などが写真技師を呼び寄せて、さまざまなヌードを撮影させていました」
当初はそんな撮影ができたのも、元大名や大商人のような、限られた人々だけだった。そんな趣味人の遊びだったヌードが普及したのは、日露戦争の頃だと考えられると下川氏は指摘する。戦地に向かう男たちが、大量に複写されるようになったヌードを買い、旅の供として持っていったのだ。