日本人なら誰もが知っているあの曲は、海を越えてカバーされていた

ギター、ジャズ…英語タイトルも面白い
片岡 義男 プロフィール

編曲で半分のスピードになった

『琴のしらべ ベスト』という全二十曲のCDのなかに『荒城の月』がある。チェットとカーメンの曲とはまったく別の方向へ奥行きを作る例だ。『オーケストラで綴る抒情歌』という二枚組全四十曲のCDにある『荒城の月』も、おなじ方向への奥行きだ。

山田耕筰が『荒城の月』を編曲したとき、八分音符を四分音符にして一小節を二小節に分け、八分音符以外の音符もほぼおなじ比率でのばした。『荒城の月』という歌が進行していく速度は、これによって半分に落ちた。その結果として、不思議なことが起きた。『荒城の月』の歌詞は現在についてなのだが、編曲によって、気持ちが過去に置かれている歌、という印象が強くなった。

琴とオーケストラそれぞれの『荒城の月』は、気持ちが過去にある『荒城の月』の典型だ。四番まである歌詞のどの番にも、「いま」という言葉がひとつずつある。たとえば一番の歌詞の最後の行には、「昔の光いまいずこ」とあるとおり、この歌は「いま」という現在の歌だ。

ムード音楽の巨匠もカバー

1964年にイギリスとアメリカで発売されたマントヴァーニ楽団の、Folk Songs around the WorldというLPのなかに、『荒城の月』がある。日本では『マントヴァーニ 世界の旅』というLPで、おなじく1964年の発売だ。

その一年前、1963年に、B面が『ラ・ゴロンドリーナ』で『荒城の月』のシングル盤が日本で発売された。オリジナルの八分音符で進行する。冒頭には銅鑼が鳴る。そしてオリエンタル・リフがある。このリフは曲の最後にも登場する。一聴ただちにチャイナあるいはオリエントの雰囲気となるが、けっして日本にはならないリフだ。このリフのオリジナルは、1910年のヒット・ソング、Chinatown, My Chinatownで使われたものだということだ。

アヌンツィオ・マントヴァーニは1905年にヴェネチアで生まれた。父親はクラシック音楽のヴァイオリン奏者で、スカラ座歌劇場のオーケストラの、コンサート・マスターを務めるなど、音楽で成功を収めた人だった。

1909年に一家はロンドンへ移り住んだ。八歳からピアノを学んでいたアヌンツィオは、当然のことのようにトリニティ・カレッジで音楽を学び、十八歳のときに初めて自分のバンドを持った。このバンドはやがて五重奏団となり、ラジオ出演やSPレコードの録音を盛んにおこなったという。日本でマントヴァーニのレコードが発売されたのは1930年からだ。

戦前における活動の蓄積の上に、第二次世界大戦が重なった。1939年には舞台劇の音楽監督を務め、1941年にはミュージカルの舞台で、劇場オーケストラを指揮した。いずれも大成功となり、マントヴァーニの名をいちだんと高めたということだ。

彼のレコードは1947年からアメリカでも発売されていた。そのアメリカでは、1950年になると、新しいポピュラー音楽のオーケストラが次々に誕生し、それらのオーケストラの音楽はレコードという商品となって数多くの購買者を獲得していた。

 

これに対抗するポピュラー音楽を創り出すことを、ロンドン・レコードはマントヴァーニに求めた。マントヴァーニはそれに応えた。編曲の才能と最先端の録音技術でLPの時代を切り開いたのが、マントヴァーニ・オーケストラの「カスケイディング・ストリングス(=滝が流れ落ちるような弦楽器)」という魅力だった。

弦のセクションを五つに分け、分担して交互に少しずつずれながら、何層にも弦が重なり合い、他の楽器のすべてがこれを支え、増幅し、影をつけた。たとえば横幅の充分にある滝を流れ落ちる水を、左から右へと見ていくときのように、重なり合いつつ次々に受け渡される弦の音は、レコードで聴く人たちを魅了した。

『シャルメーヌ』という曲は、そのようなマントヴァーニ楽団の、最初のミリオン・ヒットとなった。SPで1953年に、シングル盤では1955年に発売された。『シャルメーヌ』といえばいまだにマントヴァーニだし、マントヴァーニといえば『シャルメーヌ』だ。カスケイディング・ストリングスを日本で受けとめた世代の中心は、1950年代の後半に十代の後半だった人たちだ。