加計学園「重要機関」の顧問に名前を連ねていた、あの大物政治家

シリーズ【加計学園とは何者か】第二部
現代ビジネス編集部

あの大物議員が顧問に

岡山理科大学は、文部省への申請からわずか1年半後、東京五輪開催を控えた1964年春に開学した。それに伴い、先行して開校していた岡山電機工業高校は「岡山理科大学附属高校」に改称された。岡山理科大学の初年度の入学者は143名と多くはなかったが、翌年以降は新学科を続々と増設し、学生数も右肩上がりに増えていった。

勉氏はのちに、「僕は教育者ではない。教育実業家だ」と述べたという(鶴蒔靖夫『加計学園グループの挑戦』より)。予備校経営から教育事業に参入し、資金を確保して、ついに学生時代から夢見た大学開設までこぎつけた。重化学工業の発展という時代の要請に応え、学生を確保するために、学部は需要の見込まれる理科系に絞りこんだ。確かに勉氏は、単なる教育者にとどまらない「ビジネスセンス」を持ち合わせていた。

 

1970年代以降、成長期に入った加計学園・岡山理科大学には、現在の報道でも名前の出てくる人物がちらほらと見え始める。以下は、加計家の人々と学園関係者の「人名録」である。

現在、加計学園理事を務め、2016年まで系列校の千葉科学大学学長を務める赤木靖春氏は、当時は学園の一職員だった。氏は1980年代、岡山県北の蒜山(ひるぜん)高原に開設された附属研究施設「蒜山研究所・学舎」の所長を務めている。

一方、注目したいのは1970年代以降に学園が力を入れ始めた海外交流事業だ。本稿でもたびたび引用している、1985年刊行の『加計学園二十周年記念誌』には、当時の学園本部の陣容が掲載されている。中でもひときわ目を引くのが「国際交流局」。局長は、現在は学園理事長を務める加計孝太郎氏(当時は「晃太郎」と名乗っていた)、そして顧問には、衆院議員の逢沢一郎氏の名前がある。

逢沢氏といえば、従兄が経営する岡山県の建設会社「アイサワ工業」が、今治市の獣医学部建設工事を前出の大本組とともに受注したことが報じられている。1985年当時、逢沢氏は松下政経塾を卒塾したばかりで、衆議院選挙で初当選したのは翌1986年のことだ。逢沢氏と加計孝太郎氏はほぼ同世代。少なくとも30年あまり前には、両者はそれなりの親交を持っていたはずだ。

現理事長・加計孝太郎氏の1990年の寄稿文(『広島加計学園創立十周年記念誌』より)

30代から40歳ごろの孝太郎氏は、国際交流局長と副理事長を兼任していた。学園の公式刊行物には、当時から必ずと言っていいほど寄稿文を寄せ、国際交流事業がいかに大切かを説いている。

〈 (当時の)外務大臣、安倍晋太郎氏も言っておられますが、日本はアメリカの袖の下に隠れていれば、平和と安全と守ることができ、世界の中で発展して行くことができたという受身の形から、言いたいことははっきり言い、世界の中で日本の役割を積極的に果たして行くという形に展開して行かなければと思います。

国際的な舞台で何らかの決定を迫られ、例えば、拒否したい場合、Yes, but……,という表現から、No. Because……, という表現に変えて行くべきであると思います〉(『二十周年記念誌』所収の孝太郎氏の寄稿文「広い視野にたった交流を」より)

2017年のいま、孝太郎氏の長男・加計役(まもる)氏は加計学園の副理事長や広島加計学園の理事長を務め、次男・加計悟氏は学園系列校の倉敷芸術科学大学副学長と、同大学の獣医学系学科である動物生命科学科の講師を兼任している。

父の孝太郎氏がかつて岡山理科大学などの系列校で教鞭をとっていた形跡はないが、40代にさしかかっていた1992年の時点で、孝太郎氏も加計学園副理事長・国際交流局長のほかに、学校法人広島加計学園理事長、広島英数学館・福山英数学館館長のポストを得ていた。

当時からすでに、加計学園は現在と同じく「家族経営」の様相を呈しつつあったのだ。

                      (7月27日公開予定の第三部に続く)

参考文献:鶴蒔靖夫『加計学園グループの挑戦』IN通信社、2011年
              『加計学園創立二十周年記念誌』加計学園、1985年
              『広島加計学園創立十周年記念誌』加計学園、1990年
              『加計学園創立30周年記念誌』加計学園、1992年