「人の話は最後まで聞け」というマナーは、世界の非常識だった

だから世界のビジネスで勝てないのだ
ムーギー・キム プロフィール

間違ってもいい、とにかく言い切れ!

ダイレクトに意思を伝える必要がある。頭ではそうわかっていても、実際にはどうしたらそんなことができるのか。ここで、「グローバル・コミュニケーション」に不慣れな多くの日本人に勧めたい、具体的な方法を三つ挙げてみます。

(1)ポジションをとって断言~否定されても、正解がなくても、言い切る

「ポジションを取る」を日本語で説明するのは難しい。単純に自分の思いや考えを述べること以上のものであることは確かです。あえて言語化するなら、正解がない状況で、自分の考えが否定されるリスクを取って、自らが正しいと信じることを述べること、とでも言ったらいいでしょうか。

そのためには、衝突を恐れず、簡単に譲歩せず、いったん最後まで言い切る、という思い切りが必要。迷いのない「突破力」のようなものが求められるのです。

大学生のころ、ヨーロッパに短期プログラムで滞在し、二者択一の結論に向かって議論したことがありました。海外の学生たちに囲まれた私は、「君の意見もアリだと思うから、僕は自分の意見にはそれほどこだわらないよ」などととらえどころのない発言をし、怪訝な目で見られたものです。思い出すと胸が苦しくなります。

自分としては、穏便に合意形成することを期待した「譲歩」のひと言でした。けれども、海外の学生たちにとっては、「ポジションを取らない」私に対して、「Agree? or Disagree?(賛成?反対?いったいどっちなんだ)」と詰め寄りたくなるような、日和見(ひよりみ)のひと言に感じられたんだと思います。

社内会議の様子photo by iStock

日本だと、利害関係が対立した場合、お互いに一定の譲歩をすることが暗黙の了解になっていて、真正面から衝突する主張は控える傾向があります。でも、曖昧な譲歩を自発的にするコミュニケーションの文化は、ダイレクトなコミュニケーションを好む人たちにとって、かなり怪しげなものに映るのです。

「お前は結局どっちサイドなんだ?」と追及されてゲンナリしたくなかったら、「ポジションを取って」言い切ることをオススメします。

 

割り込んででも会話に参加する

(2)意見の否定は、人格の否定ではないと知る

自分の取ったポジションが負けたとしても、さほど重くとらえる必要はありません。人格を否定されているわけではないのです。いちいち落ち込んだり、ましてや激怒するなんて、まったくの筋違い。

ダイレクトなコミュニケーションによる議論に慣れた人たちが理想とするのは、お互い忌憚なく意見を出しつくし、仮説を検証するプロセスを経て、より良い意思決定をすることなのです。各自があらかじめ取るポジションはあくまで仮説に過ぎず、それが正解であることは求められていません。

「あなたは間違ってる!」と言い切ったブラジル出身のクラスメートも、私の意見をはっきり否定しておきながら、議論の末に彼女の主張こそ間違っていたことがわかると、最後はあっさり「あら、間違ってたわね」。彼女にとって、意見を否定することは別に不誠実でも何でもなく、ごく当たり前の議論のやり方だったわけです。

ポジションを取ることも、主張したいことをストレートに伝えることも、本当に全然恐れる必要はありません。間違っていても断言し、その修正をくり返すことで、仮説の精度を高めていくことこそが、議論に求められていることなのです。

(3)自分が常識と思っている発話のルールを疑う

人の発言が終わるまで待て、大声で話してはいけない、会議室では大人しく座って話す……と教えられませんでしたか? いずれも、日本では発話する際の基本ルールのようなものです。が、海外の現実を見ると、必ずしもこのルールは通用しません。もっと柔軟に考える必要があります。

たとえば、メンバーのバックグラウンドにもよりますが、ある程度グローバルな環境で議論が白熱してくると、発言のタイミング、声量、身ぶり手ぶりなど、もはやあらゆることが万人の万人に対する戦争状態(笑)になることがあります。

話の切れ目で、あるいは切れ目でなくとも、絶妙な勢いとタイミングで話をすべり込ませてくる人が、世界にはたくさんいます。

悠長に「I understand your point, but I would like to suggest that...(あなたの言うことはわかりますが、そこで私が提案したいのは……)」などと話していると、かき消されてしまうことが多々あるわけです。そこでは模範的なビジネス英語の定型文はほとんど役に立ちません。

そのような戦争状態に陥ると、往々にして、心の中にモヤモヤとしたものが立ち上がってきます。「何で私は律儀に発言の順番を待っているのだろうか?」と。

結局、日本で教え込まれた発話のルールに縛られていては、自分をわかってもらえないのです。わずかなスキを逃さず、なかば割り込むような形で発言するのもやむなし。多少タイミングが重なっても、声が大きくなってもいい。ジェスチャー、ホワイトボード……使える手段は何でも使うしかありません。

それほどの覚悟をもって議論に臨んでこそ、周囲の注意を引き、主張に耳を傾けてもらうことが可能となります。発言の機会が回ってこないからといって、「私の気持ちを察してよ……」と黙っていては、ダイレクトなコミュニケーションに慣れた人たちに何かを理解してもらうことなんてできないし、そもそも発言の機会など回ってこないのです。