男性至上イデオロギーが支配したオリンピックの「黒歴史」

東京五輪で「男女平等」は実現するか?
森田 浩之 プロフィール

メディアが強調する「周囲の支え」

こうした歴史を経て、2020年東京オリンピックには男子に迫る数の女子選手が参加するまでになった。

しかしクーベルタンが掲げた男性至上主義は、本当に消え去ったのか。

そう言いきるのは早すぎるかもしれない。今も残る問題のひとつは、女性アスリートに対するメディアの扱い方だ。

スポーツにおける男性の勝利と女性の勝利は、同じ価値のあるものとして扱われないことがある。女性アスリートの業績は、さまざまな形で小さく見せられることが珍しくない。

昨年のリオデジャネイロ大会では、アメリカのメディアにこの手の報道が相次いだ。

たとえば、競泳女子400メートル個人メドレーで金メダルを獲得したハンガリーのカティンカ・ホッスー。「鉄の女」の異名をとる彼女は、それまでの世界記録を2秒近く縮める素晴らしい泳ぎで優勝を遂げた。

ところが米NBCテレビがたたえたのは、ホッスーその人ではなく、彼女の夫でコーチでもあるシェーン・テュサップだった。プールサイドにいるテュサップの姿をカメラがとらえたとき、キャスターはこう言った。

「妻を完璧に新しい競泳選手に生まれ変わらせた立役者が、この人です」

ホッスーの金メダルは、彼女のパートナーである男性の功績にされてしまった。

メディアは意識するとしないとにかかわらず、女子選手が栄冠を勝ち得たときに「周囲の支え」を強調してしまうことがある。女子選手を支えているとされるのは、たいてい男性のパートナーやコーチだ。

日本の場合、オリンピック史で最も有名な「女子選手と支える男」のペアは、2000年シドニー大会のマラソン女子で金メダルを獲得した高橋尚子と小出義雄監督かもしれない。高橋の栄冠は小出の存在なしに語られず、メディアが描く2人の関係は「擬似父娘」のようでもあった。

〔PHOTO〕gettyimages

メディアに映る女子選手は、男子に比べて「受動的」で「依存的」と位置づけられがちだ。クーベルタンの時代から続くスポーツにおける男性至上主義の名残が、メディアの中でつい顔をのぞかせてしまう。長くこびりついてきた汚れは、なかなかきれいに落とせない。

 

変革を遂げるチャンス

クーベルタンは生涯を通じて、女性の汗によってオリンピックを「汚す」べきではないと信じ、女子選手をあからさまに排除した。

しかし2020年の東京オリンピックでは、陸上のトラックや競泳のプールで男女混合のチームが栄冠を争うことになる。

競泳の混合400mメドレーリレーは男女2人ずつが泳ぐが、男女の泳ぐ順番は自由。その配置も勝負に大きくかかわるといわれている。世界最速の男性泳者と世界最速の女性泳者が競う場面も期待できる。

クーベルタンが目にしたら、卒倒しそうな光景だ。

いや、オリンピックの歴史を振り返れば、クーベルタンが目を回すくらいでちょうどいいのだろう。

今まで女性には決してやさしくなかったオリンピックが変革を遂げるチャンス──多くの問題を抱える東京オリンピックだが、少なくともそんな大会になる可能性はなくはない。

【つづきはこちら:「復興五輪」という言葉に、拭いきれない違和感が湧いてくる