男性至上イデオロギーが支配したオリンピックの「黒歴史」

東京五輪で「男女平等」は実現するか?
森田 浩之 プロフィール

女性だけのオリンピック

こうした状況に、女性たちが黙っていたわけではない。オリンピックの男性中心の発想に対しては、驚くほど早い時期から女性たちの抵抗がみられた。

第1回アテネ大会では、メルポメネという名のギリシャ人女性がマラソンに出場したいと申し出たが、IOCに拒否された。

そこでメルポメネは異議申し立てのために競技場に押しかけ、非公式な参加ながらもマラトンからアテネまでの40キロのコースを4時間30分で走り抜いたとされる。

だが女性の種目が公式に行われるようになっても、女性の競技はなかなか男性と同等の地位を与えられなかった。女性アスリートの数は相変わらず少なく、参加選手は時間と金のある特権階級の出身者に限られていた。そのため1910年代後半からは女性の参加をめぐり、いくつもの重要な動きが見えてきた。

1917年には、クーベルタンと同じフランス人の女性アリス・ミリアが代表となって、女性のスポーツ組織が結成された。この組織はIOCに対し、1920年アントワープ大会への女性アスリートの参加を強く要求した。

1921年にはヨーロッパとアメリカの女性アスリートが、モンテカルロで陸上競技を中心とする大会を開いた。この大会に出場した選手たちが「国際女子スポーツ連盟(FSFI)」を創設。この組織が中心となって翌22年には、女性アスリートのオルタナティブな競技会である「女子オリンピック」をパリで開催した。

この大会はその後も続けて3回開催された。1926年にはイエテボリ(スウェーデン)で、1930年にはプラハ(チェコスロバキア=当時)で、そして1934年にはロンドン(イギリス)で開かれ、ヨーロッパ、イギリス連邦、北アメリカを中心とする多くの女性アスリートが参加した。イエテボリとプラハの大会には、日本の陸上選手である人見絹枝も出場している。

 

象徴的な勝利

クーベルタンは1912年になっても、女性がオリンピックへの熱意を高めていることに対して、嫌みな調子でこう書いている。

「今や、女性テニス選手や女性競泳選手がいるばかりではない。女性のフェンシング選手や騎手もいれば、アメリカには女性のボート競技者もいるというではないか。

将来はきっと、女性ランナーや女性サッカー選手までいるのだろうね? 女性が行うそうしたスポーツに、観客を魅了するスペクタクルをつくり上げることができると思っているのか? 私にはそうした要求を満たすことができるとは思えない」

今や女性ランナーや女性サッカー選手はもとより、オリンピックのほぼあらゆる競技で女性アスリートの参加が認められている。ここまではクーベルタンが皮肉っぽく予想したとおりだ。だがクーベルタンには、女性アスリートの活躍が観客を魅了する時代が到来することを見通せなかった。

オリンピックの女子競技の拡大に火がついたのは、女子が参加選手の1割を初めて超えた1952年ヘルシンキ大会あたりだろう。1976年モントリオール大会で、女子選手はようやく全体の2割を超えた。

1984年ロサンゼルス大会では、ついに女子マラソンが公式競技となった。アテネでのメルポメネの抗議から実に88年。「女性は先天的に弱く、長期距離走には不向き」という神話を女性たち自身が打ち負かした象徴的な勝利だった。