無愛想なコンビニ店員の登場から、日本語文化の崩壊を感じる

事実さえ伝えればよい時代になるのか?
片岡 義男 プロフィール

「科学」と「化学」は全く違う

戦後の日本で少年少女の健全な育成を願う一環として、『ロウソクの科学』という本が、必読書の一冊として、いたるところで推薦されていた時期がある。その時期にまさにそのような子供だった僕は、この本を何度も読もうとした。そしてそのつど、数ページで挫折していた。

ロウソクの現物は好いていた。だから、ロウソクと『ロウソクの科学』とのあいだにあり続ける乖離に関して、いつまでも理解出来ないまま、現在にいたっている。

ひどい翻訳がたくさんあったという。挫折の一端はそのような翻訳にあったということにして、日本では『ロウソクの科学』で流布しているこの本の原題は、A Course of Six Lectures on the Chemical History of a Candleというのだと、ごく最近になって知った。

著者のマイケル・ファラデーが1860年から1861年にかけておこなった六回の講演を一冊の本にまとめたものだ。『ロウソクの科学』という本を手にするたびに、これはなにかがおかしい、と感じていた子供の自分が、いまの僕のなかによみがえっている。そう感じたことが、この本に関する何度もの挫折の第一歩だった、といまの僕は理解している。

ロウソクに科学的な側面はあるとしても、少なくとも燃えているときのロウソクは、ケミカルな出来事なのだ。ロウソクは、じつは、といまさら言うまでもなく、化学なのだ。『ロウソクの科学』と『ロウソクの化学』とを見くらべるといい。

『ロウソクの科学』のほうが明らかに見栄えがいい。わかりやすそうな印象もあたえる。だから化学は科学となり、そのまんま科学であり続けることとなった。いま僕の手もとにある岩波文庫は2002年のものだが、題名は『ロウソクの科学』だ。

 

燃えているときのロウソクはケミカルな出来事なのだ、と僕は書いた。化学的な、とは書かず、片仮名でケミカルな、と書いた。音声の上でサイエンスと区別したい、という意識はあっただろう。しかし、そのような意識を越えて、化学とは書かずにケミカルと書いた。音声でもカガクとは言わずに、ケミカルな、と言うはずだ。化学はいつのまにか、あるいはひょっとしたら最初から、少なくとも僕にとっては、ケミストリーだったのかもしれない。だとしたらケミカルと書くのは、ごく当然のことだ。

最初の湾岸戦争の頃、ある雑誌の編集者と喫茶店で会った。仕事を頼みたいのでまず話をしたい、ということだった。いろんな話をした。彼の言葉のなかで、パージャン・ガルフ、というひと言がなぜか気になった。「それはペルシア湾のことか」と訊いた僕に、「そうです。英語では、そう言ってます」と、彼は答えた。

「では僕たちも、ここから先は英語で話をしようか」と僕は言った。彼はしばらく黙っていた。そして苦笑し、「カタオカさんのユーモアとして受けとめておきます」と、日本語で言った。だから僕たちは日本語で話を続けた。