男性として生まれたものの自らの「性別」に違和感を覚え、同性愛、性同一性障害など、既存のセクシャルマイノリティへ居場所を求めるも適応には至らず、「男性器摘出」という道を選んだ鈴木信平さん。そんな鈴木さんが、「男であれず、女になれない」性別の隙間から見えた世界について、描いていきます。今回は「エロスよりも緊急性の高い性の問題」について大いに語ります。
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「黄色と黒は勇気のしるし 24時間、戦えますか」
なんて言葉が世間を鼓舞したのは、もう30年近く前のこと。子ども心をわしづかみにしたメロディーで歌われたお茶の間ソングは、時間を経て冗談にもならない歌になった。
今なら、24時間戦わなくてはならない企業は明らかに「ブラック」で、24時間戦う人は、価値観にせよ境遇にせよ、いずれにしても「気の毒な人」と評されることが多い。
『24時間戦うなんて、余りにしんどい』
30年の時を経て、これは社会に共通する概念になった。
07:30
サラリーマンである私の日々の起床時間。
気ままな独り暮らしだ。寝起きの不細工な顔を好き放題にさらして、顔も洗わずに最初に向かうのはトイレである。
パジャマとしているズボンを膝まで下ろし、電気によって心地良く暖められた便座に腰を下ろす。
2015年に男性器を摘出してからは、多少感覚がバカになった気がする。
残尿感こそないものの、これで完全に終わりなのかどうかの判断が昔のようにはつかなくなった。
一定の時間を過ごすことで区切りをつけ、3年前には使わなかったトイレットペーパーをガラガラと器用に巻き、お股をしっかりと乾燥させて私は朝のお勤めを終える。
利便性だけを考えるのなら、余りに非効率になった。
立ったままで、ペーパーも必要とせず、尚且つキレも良かったあの頃。
それはもう、私にとって遠い日の花火になった。
改めて「性」とは不思議なものだと思う。一方ではとても神秘的で、一方では余りに日常的だ。
そしていずれの場合にせよ、認知し、同意を持ちあった相手との間では協和的であり、理解できず、拒絶した相手との関係性では、極めて排他的だ。
「性」における心と体の一致が、現在の社会での典型に当てはまらない状態で生きることは、「性」が持つこの両面に向き合うことを意味している。
決して単純に、エロスの性だけが問題なのではない。むしろ生きる上では、圧倒的な強制力で日常を支配する、排泄欲求としての性と対峙することの方が重要性、および緊急性は高い。
これは、LGBTの中でも最後の「T」に該当する人が多かれ少なかれ向き合う困難。
トランスジェンダー、トイレ問題のお話である。