# 社会風俗

日本人の「危険回避能力」が落ちていることを示す、衝撃的な事実

自転車のライトは何のために点けるのか
堀井 憲一郎 プロフィール

道を照らすつもりなどなかった

私が8歳のときに買ってもらった自転車は中古品で、ライトが付いていなかった。夕方から自転車で出かけたとき、祖父の懐中電灯を借りて、それをヒモでぐるぐるに取り付けて、ライトの代わり(というか手製の自転車ライト)にして走った。

懐中電灯を取り付けるのは8歳にはなかなかむずかしかった。どうしても少し横を向いてしまう。ちょっと右向きになる。これは許されないんじゃないか、とすごく不安だった。

自転車のライトが正面を向いていないことに気付かれれば、おまわりさんに捕まるのではないか、見知らぬおじさんにも怒られるんじゃないか。びくびくしながら、必死で自転車を漕いだ。逃げるような気持ちで走り続け、何とか帰り着いた。おまわりさんに捕まらなかったし、見知らぬおじさんに怒られることもなかった。

あらためてこのとき、道を照らすつもりがまったくなかったことが(自分のことながら)わかる。

市街地の道路を走ってるかぎり、怖いのは自動車であって、道にある穴に落ちたり、脇の田畑に落ちることではない。そもそも落ちるような穴はなかったし、田畑もなく、並走するタヌキやイノシシもいなかった。

いま書いていて気が付いたけれど、走る自動車よりも走る小動物のほうが多い地方の山道なら、たしかにライトは正面ではなく、自分の走る道路を照らしたほうがいいだろう。そういう都市と田舎の意識の差の問題なのか、と一瞬おもったが、いやたぶん違いますね。

走る小動物と戦いながら自転車で走る子はいまでもいるだろうが、そんなに多くはないはずだ。私が子供だったころより、日本ははるかに都市化しているし、クルマの保有数も増えている。

やはり問題は、ものを考えるときにどこに立つか、ということなのだ。

これは、子供をどこに立たせて、どこを見るように教えるのか、という問題でもある。

自転車に乗り始める年齢の子供に、何を意識させるか。自分が弱い存在だと意識させているのか。人は理不尽に無意味に圧倒的な暴力によって消えることがある、と示唆できるのか。

また、暗闇でライトを当てるのは、まわりなのか、自分なのか、生き残る可能性はどちらが高いのか。

そういう問題である。

 

自由は危険

そもそも、自転車はなぜか、自由である。

自転車に乗っていると、自由をより強く感じてしまう。気持ちはわかる。いい意味でも悪い意味でも、自転車は自由であり、ずっと私は自由だと宣言しながら走っているように見える。

どこまでもいけるし、あくまで自分の力で動いてるし、自分の意思でどう動くかも決められる。そして人より速い。自由だ。そのいっぽうで、困ったことに、交通法規からも自由でいられる(ように感じてしまう)。

暗くなっても電気をつけないし、赤信号でも走るし、反対側の車道を逆走する、歩行者が横断歩道を渡っていてもすり抜けられそうなら横断歩行者のすきまを走り抜けたりする(これを自動車でやったら大騒動になるとおもう)。

自由である。

クルマを運転してる人よりはかなり自由だ。ときには歩行者よりも自由だろう。

もちろん交通法規をきちんと守っている自転車乗りのほうが多いのはわかっている。でも、自転車乗りの一部が自由走行していると、ほぼすべての自転車が自由に動いてるように感じてしまう。クルマはあそこまで自由には動いていない。自由なクルマは(たとえば逆走しているクルマは)すぐに捕まるからだ。

そして自由は自由であるかぎり、とても危険である。規律的な存在より、自由な存在のほうが、いつだって死に近い。

1960年代には社会の空気として、そういう了解があったようにおもう。言葉にされていないけれど、子供でも何となく感じていた。