私が抱える「ある欠点」
私たちの欲望においては、じつは、能力と無能、長所と欠点、強さと弱さが分かちがたいものとして混ざりあっている――これが『ジョジョ』におけるオルタナティヴな自己啓発の意味になっていく。
人間としての最大の弱点や無能力こそが、じつは、その人にとっての一番の強みになり、最大のポテンシャルになっていくかもしれないのだ。
たとえば私は、とあるNPO法人で働いていた頃、仕事の整理やまとまりをつけられず、悩んでいた。整理しようとすればするほど、収拾がつかず、混沌が増していった。
どうやら「整理できないこと」「物事をうまくまとめられないこと」は、私の人格の根本に関わるらしい。うまく記事や原稿を短くまとめることも、部屋や本棚を整理して片づけることも、昔からできなかった。
何とか改善しようとしてきたが、努力すればするほど、部屋の中も、私の精神状態も、カオスの度合いを深めてしまった。
そんなある時、小学生時代からの幼なじみが、こんな思い出話をしてくれた。
「お前、小学生のとき、図工の版画をひたすらやり続けていて、みんながもう終って、先生も『もうやめていいよ」って言っているのに、まだこれじゃ満足できない、まだダメだ、とか言って、ずっと続けたんだよな。あの粘り強さは、俺には、けっこう脅威だったよ。なんかお前らしい、って思ったな」
ジョジョでは欠点は恩寵になる
さらに別のある時、職場の同僚が、あるAD/HD(注意欠陥性多動障害)をもつ既婚女性について、こんなことを言っていた。
「物を片付けられないっていうのは、他の人の目からみればゴミみたいなものでも、その人はぜんぶ大切にしてるってことなんだよね。自分はどんどん、いらないものは切っちゃう性格だから、逆に、すごいなって感じる時もあるんだよね。ああいうものをぜんぶ、長い間大事にしていく中から、何かが生まれるかもしれないよね」
彼らの言葉によって、私の中の「片付けられない」という欠点の意味が、違う角度からの光によって照らされ、少しだけ変わってくれたように思えたのである。そしてそれを長所や強みとして生かしていくこともできるのかもしれない、と。
大切なのは、宿命的・人格的などうにもならなさを、むりやり否定したり抑圧したりするのではなく、別の可能性へと開いて、更新していくことではないか。そのように思えるようになったのだ。
「もうどうにもならない」という絶望や無力感こそが、狭く閉じがちなこの私の自我や欲望を、もう一度、より深く広く豊かなものとして開き直すための、チャンスになるのかもしれない。
『ジョジョ』のオルタナ自己啓発においては、私たちの宿命的な弱点や欠点、無能力ですら、恩寵となりうるし、人生の糧になりうる。つまり、失敗や無力や悲しみをも混ぜ合わせて、それらを人生の腐植土としていくことによって、人々の欲望はさらなる深みや豊かさを賜っていくのだ。
そして『ジョジョ』の世界では、私たちが他者たちと欲望を巻き込み合い、関係していけばいくほど――それがどんな欲望の形であれ――この世界は全体としてより素晴らしくなっていく。
友人や仲間との関係に限らない。人生の中で出会う相手がたとえ狂人や変人、ダメな人間や悪人であっても、この世界はより豊かに、より素晴らしくなっていくのだ。
私たちは日々の仕事や家族との関係の中で、しょっちゅう怒り、ねたみ、憎しみの感情に支配されている。人間はやはり、敵対したり憎みあったりするほかない生きものなのか。法律やら社会秩序があるから、かろうじて、人間関係が成り立っているだけではないのか。そんな気がしてくる。
しかし『ジョジョ』のオルタナ自己啓発は、そのような敵対的な関係をも、はっきりと祝福しようとする。
他者から触発される負の感情、嫌な感情ですら、ほんとうは、喜びになりうるのではないか。身をすり減らしていくいさかいや敵対によってすら、私たちは互いの生をよりすばらしいものへと押し上げていくことができるのではないか。それが『ジョジョ』の世界観なのである。