東大名誉教授が解明「石原裕次郎が日本一愛される男になったワケ」

スターと大スターの大きな違いがあった
本村 凌二 プロフィール

「二十五、六歳の男が時の総理とサシで飲んで飯食って何時間ももつんだから。帰りに気に入られて梅原龍三郎さんの絵を貰って戻ってきた」と監督は回想する。

権力闘争のなかで勝ち残り頂点に立った人間だから、人を見る目にはそれほど狂いはないはず。おそらく裕次郎という人物のなかに、権力者や権威者に媚びることがなく相手をなごませるような雰囲気があったにちがいない。

母である光子の回想も興味深い。母はずいぶん勉学には付き添って教えたが、なかなか身につかなかったという。能力がないわけではない。他人の気がつかないことにも気がつくし、観察力も記憶力もひときわすぐれていた。

後に脚本のセリフ覚えがいいのは衆目の一致するところだ。だが、勉強が嫌いというか、自分のやりたいことしかやらない自由人タイプだったらしい。

これらのエピソードから、おぼろげながら人物像が浮かび上がってくる。私の思いこみでもいいのだが、人間としての裕次郎には、おそらく「さりげない気配り」とでも言うべきものがあったのではないだろうか。

「自分がしたくないことはしない」という性格は、裏返せば「自分がしてほしくないことを他人にもしない」という生き方になる。これはとても大事なことである。

ユダヤ教の経典には膨大な律法がある。ある異教徒の男が来て二大学派の始祖であるシャンマイとヒレルのそれぞれに「片足で立っている間に律法全体を説明してほしい」と請うたという。

シャンマイは「そのような不遜なことはできぬ」と言って男を追い返してしまった。これに対して、ヒレルは「律法の精髄は『自分の欲しないことを他人にしてはならない』という戒めにある」と答えたという。

いささか大袈裟かもしれないが、裕次郎という人物はそういう精髄の戒めを意識することもなく備えていたのではないだろうか。そのような姿勢が自然に身についていたから、多くの人々に苦もなく溶けこめるのだろう。

そのために目上目下を問わずその人物に惹かれ献身したくなるような気分になる。本人の意志にかかわらず、いつのまにか子分のような人々が親分のまわりに集まってくるのだ。

そこには、丹念に制作した模型飛行機が素晴らしく滑空して消え去っても、その後を追わなかった少年の姿がある。物にこだわらない、捨て身でいられる。おそらく、昨今の政治家や経営者の多くに欠如したリーダーの資質であろう

 

裕次郎の逝去から三〇年が流れたが、その人間の大きさや温もりは記憶から消え去らない。もっとも、私のように裕次郎の歌なら一〇〇曲以上は唄えるという年季の入ったファンだから言えるのかもしれないが。それも無理して覚えた歌など一曲もない。いつどこで唄えるようになったか、ほとんど記憶がないのだ。

それにしても、今では、五二歳で世を去った裕次郎よりもはるかに年上になった自分がいる。それでもなお、その人間の生きてきた軌跡にはなにか訴えかけるものを感じてならない。それは何であるのか。それを自分なりに確かめてみたいという思いがある。

筋金入りの大ファンが著した、裕次郎と歩んだ昭和史

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