東大名誉教授が解明「石原裕次郎が日本一愛される男になったワケ」

スターと大スターの大きな違いがあった
本村 凌二 プロフィール

そこには姿や形だけではなく、人間としての存在感そのものがあった。もっとも、それを感じるかどうかは見る側の感性や生き方にもかかわっているのだが。

その存在感らしきものの片鱗について、筆者なりの感想を述べておきたい。

話はどうも敗戦直後のことのようだ。

まだ一〇代になりたての少年のころだった。弟は精魂こめて丹念に作りあげた模型飛行機を丘の頂上から風に乗せて飛ばすと言いだした。胸ときめく試みだが、せっかく手塩にかけた飛行機がどこへ飛び去るか知れたものではない。兄はしきりに止めたが、弟は仲間を連れて丘に上っていった。

胴体にかかるゴム紐を巻き上げ、機体をかざし、風に乗せるように上向きに放つ。その飛行は素晴らしいものだった。悠々とした滑空がどこまでもつづくかのようであり、誰もが息をこらしながら見とれていた。やがてゆるやかに下降しながら、松林の彼方にある町並に消えていった。

みんなが一斉に走り出し、飛行機を取り戻すために駆け降りていく。だが、当の弟だけが後を追わず、兄が促しても、あれはもういいのだというかのように首を振って笑うだけだった。そのとき、兄は弟にひそむ底知れない人間のもつ存在感にふれたようだという。

石原慎太郎『』(幻冬舎)の回想のなかで、私には最も印象に残る感動的な場面であった。もちろん弟とは石原裕次郎、戦後の昭和を駆け抜けた不世出の大スターである。

戦後がやっと明るくなりかけた昭和三〇年代、そのころ小学校四年生だったのに、私は日活映画の上映館に足を運ぶようになった。同時期の正月映画で少年剣士の物語『赤胴鈴之助』も上映していたのだが、いささかませていたガキにすれば、裕次郎主演の『嵐を呼ぶ男』も捨てがたかった。

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日本一を決定するドラム合戦の前夜、敵側のさしがねで手に怪我をおった裕次郎が痛々しくマイクをとって「おいらはドラマー……」と唄いだす。そのかっこよさに子供ながらシビれたものだ。またたく間に銀幕の男は、同性にも異性にも愛されるスーパースターになった。

ただ脚が長くてかっこいいからとか、魅力的な歌声だからとかいうだけで、裕次郎は大スターとして君臨したわけではない、と思う。その男のもつ人間の大きさ、明るさ、聡明さというような肌の温もりが、映画やテレビの画面からも伝わってくる。

しかも、側近の回顧談によれば、人の悪口を言わない人物だったらしい。そういう天賦の美質に恵まれながら、それをひけらかすこともなく自然に相手に感じさせる。

五社協定(映画会社五社が結んだ俳優の引き抜き禁止などの協定)の制約が厳しい時代にあって、名優三船敏郎との共演などありえなかった。

それにもかかわらず、艱難辛苦を乗り越え、独立プロとして制作した『黒部の太陽』が大成功をおさめたのは、今でも語り草である。その石原プロは社長の死後も長くつづいている。

リーダーとしての資質

ことさら裕次郎に注目するのは、昭和史の世相の一齣を語るためではない。筆者には、裕次郎は稀にみるリーダーとしての資質を備えた人物である、と思えてならないのだ。それは、肝がすわっている、大局的な見方ができる、戦略的思考にたけている、などの次元ではない。

 

裕次郎にインタヴューしたことのあるアナウンサーの回想によれば、彼はとても楽な話し相手だったという。特別な話題を考えていく必要もなかった。普通の常識人であり、新聞などにも目を通しているので、どこにでもある世間話にも対応してくれた。簡単そうであるが、じつは「さりげなさ」とでもよぶべき美点があるのだ。

さらに、舛田利雄監督の語るところでは、ある夜間ロケの最中に、時の首相である池田勇人から裕次郎に夕食の招待があった。首相はどうやら裕次郎ファンで二人とも大酒飲みだった。

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