AI技術で楽しい仕事だけが残る?

僕は准教授として京都大学に戻ってきたとき、学生時代の師匠と同じ研究室で、人工知能(AI)の研究を続けようと思っていた。当時は、人間の最も知的な能力である「設計」を、AIにサポートさせようと考えていた。

ところが、師匠は「そんなモノつくって、面白いか?」「これからは不便益やで」と僕に言った。そのときは正直ご乱心かと思ったが、いまは師匠の言葉のままに不便益の思索を引き継いでいる。

そんな研究をしているから、「本当にAIに仕事を奪われる社会が来ると思いますか?」と問われることが多い。不便益とは「人が手間をかけ、頭を使うことの価値」だから、おそらくは問う側も「人が手間をかけ、頭を使う仕事はなくならないでしょう」といった答えを期待しているのだろう。

正直なところ、僕には明確な答えが出せない。

いまはAI研究を捨てた身ながら、前世紀末に起こった第2次AIブームの最中に研究を始めた者として、近年のAIの能力が、当時「絶対無理」と言われたレベルを軽々と超えて見せたことに驚いている。

そんなAIの発展が、今後の労働集約に一役買うことは間違いない。AI搭載のコンピュータのスイッチを入れるだけで完了する仕事は、「いつでも、だれでも、同じように」できる仕事を増やすだろう。労働時間も短くて済むし、もしかしたらスイッチを入れる必要さえなくなるかもしれない。そうなると人間の仕事の多くが奪われる日が本当に来るかもしれない。

もっとも、AIが代替してくれるのは「仕事」とまでは呼べない「作業」のようなもので、おかげで人間はもっと社会性や創造性が必要な仕事に注力できるようになる、という見方もある。そしてそのような仕事は楽しいものだ、というのである。

それはまさに、この原稿の冒頭で書いたように、手間をかけ頭を使うことは、働くことそのものの必要条件である、という考え方に合致する。「余人をもって代えがたい」不便益の指向する仕事だけが世の中に残るというのだから、僕としてはこの将来予測が正解であってほしい。

徹底して考えるしかない

しかし、巷で話題のAI技術による「自動運転」の動向を見ていると、社会性や創造性が必要な仕事に集中できて楽しい社会、というのは、やはりちょっと怪しい気がしてくる。

「AIはそこまで賢くなれないよ」という意見があることは承知の上で、仮にどのような状況でも人間より安全にクルマを運転するAIができたとしよう。

専門家のあいだでは、自動化のレベルがいくつか定められている。現在実用化が進んでいる「衝突の可能性を察知して自動で減速するシステム」はレベル1。「車間距離を一定に保ちつつ、定速走行を自動でやってくれるシステム(アダプティブ・クルーズ・コントロール)」はレベル2だ。

レベル3は、クルマを運転するすべての作業が自動化され、ドライバは緊急時の責任をとるためにずっと監視をしている役割となる。そのときはもはやドライバではなく、監視員と呼んだほうが仕事の中身と合致するだろう。

便利で楽チンだが、楽しくない。にもかかわらず、クルマや同乗者に関するすべての責任を負うために避けられないという意味では「余人をもって代えがたい」。不便益の指向する仕事のはずなのに、社会性や創造性が必要な仕事とはまったく思えない。AI技術によって、人間が不便益の喜び、楽しさだけを感じる仕事だけが残される、というのは、やはり理想に過ぎるようだ。

効率化や生産性の向上だけ見ていてはいけない、同時に見ておかねばならないものがある。不便益の考え方はそう教えてくれるけれども、ソリューションまで用意はしてくれない。手間がかかることや頭を使うことの価値を無視してはダメだ、そんな抽象的で使い勝手の悪い知見までしか与えてくれない。

それでも、効率ばかり目指す社会のあり方に、僕は人間として無批判ではいられない。

首相官邸が今年3月に発表した「働き方改革実行計画」には、基本的考え方として「日本人のライフスタイル、日本の働くということに対する考え方そのものに手を付けていく改革である」と書いてある。

「働くということに対する考え方そのもの」を突き詰めるしかない。であれば、不便益について考えることも必要条件であるはず。働き方改革の本丸は、結局そのあたりにあるのではないか。

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