「ヤンキー先生」とは一体なんだったのか? 疑わしき「熱血」の正体

義家弘介・文科副大臣の過去を解剖する
後藤 和智 プロフィール

先日北田暁大・栗原裕一郎氏との共著で出した『現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史』(イースト新書)で、私は「言論という麻薬」として、次のように語りました。

いま私が問題意識として考えているのが「麻薬としての言論」です。「言論」にコミットすることによって、かえって社会認識が狭くなってしまう。ツイッター言論などは、ブロック機能などを使って自分でタイムラインを加工できる分、自分に都合のいい言論ばかりが流れるようになるという批判がされることがあるんですけど、それはツイッターの機能に帰されるものではなく、むしろ「言論」全体がそういう役割を果たすようになっているのではないかと思っています。
そして、そういう着飾って、使い捨てるというタイプの言論や、そういう時代に適応した論客は、バブル時代から若者バッシングの時代に至る間にその実例が多数ある。「批評の再生」というのを云々したいなら、「批評」が社会科学として検証に値するものであるという認識を持つと同時に、そういう「使い捨てられる言論の時代」に適応した論客に対する根源的批判も必要だと思います。そこに気づかない限り、「批評の未来」なんて皆無であり、「批評」業界は限界集落のままだと言わなければなりません。
(北田暁大・栗原裕一郎・後藤和智『現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史』イースト新書、2017年、pp.210-211)

このような「麻薬化する言論」の現状において、ビジネスのために保守系の言説を振りまいているという論客や、義家のような「親」の期待する像を演じてくれる論客・政治家の存在というものは象徴的です(同じようなことは左派系にも言えますが、ビジネスの規模としては右派系のほうが格段に大きいと思われます)。

科学的な知見や社会改善に資するような言説ではなく、特定の思想を持った集団の「癒やし」となるような言説がもてはやされるという現状は「ポスト真実」の一端を担っていると言えます。

 

ネット社会になってそれが加速したという認識もありますが12、私が長い間関心を持ってきた若者論においては、これが日常でした。

人々がマスコミやネットで思い思いにいまの若者の「駄目さ」を語り、若者を叩くような新書がもてはやされ(現に三浦展のように「売るためにわざとバッシング気味に書いた」と公言する論客もいたほどです)、結果として若い世代への抑圧やハラスメントが正当化されていくのです。

そしてマスコミやネット世論の求める「若者」が論客としてもてはやされ、社会の文壇が広まっていく——そのような言論の「麻薬化」ないし「若者論化」を象徴する事象として、義家の姿は記憶される必要があるのではないでしょうか。

(文中敬称略)

※一部の記事は@niftyの新聞記事検索サービスから引用しています。
1 2017年6月17日朝日新聞社説
2 『週刊現代』2005年3月5日号pp.186-187
3 『週刊現代』2006年5月27日号
4 2006年10月19日付読売新聞など
5 『サンデー毎日』2006年11月12日号pp.24-25
6 2007年7月8日付朝日新聞社説
7 2007年2月10日付朝日新聞
8 『FRIDAY』2007年8月13日号pp.84-85
9 『週刊現代』2007年7月21日号。なお同記事には「共産党系の日教組」という記述があるが、共産党の教職員組合は、前掲『クレスコ』を刊行している全教である
10 2008年9月25日付共同通信配信記事
11 2008年12月26日付産経新聞
12 例えば、長倉克枝「ネットで軽くなる「真実」の重み」、『日経サイエンス』2017年7月号、pp.50-52