なぜ世界中で「リベラル改革」が困難を極めているのか

ロシア革命100周年、重大な教訓
塩川 伸明 プロフィール

経済改革についていえば、最初のうちは「市場」の語へのアレルギーがあったが、ほんの数年経つうちに、「市場」を肯定的に評価する発想が急速に広まった。市場よりはやや遅れつつ、私有化も次第に受容されるようになった。

とはいえ、それが直ちに現実に反映したわけではない。抽象的観念としての「市場」については肯定的になっても、価格改革(物価上昇)をはじめとするその現実的着手への反撥が続くという「総論賛成・各論反対」状況が持続した。

政治改革についていうなら、権力分立、複数政党制、自由選挙、言論の自由をはじめとする基本的人権の尊重等々といったリベラル・デモクラシーの諸原則は、かなり急速に受容されるようになった。

しかし、抽象的な原則受容と現実的定着の間には大きな距離があり、政治改革への着手はかえって社会的混乱を招いた。その中で、「強い腕」による秩序回復への願望が広がり、民主主義への過渡段階としての権威主義必然論などが説かれるようになった。

つまり、市場経済とかリベラル・デモクラシーとかいった抽象的な原則レヴェルだけに着目するなら、かつての否定論から肯定論への大逆転があったが、問題はそうした抽象論ではなく、具体的な移行の困難性にあった。

改革のエスカレートは、当初想定されていた「社会主義の改革」の枠を超え、体制転換、即ち「脱社会主義」を射程に入れるに至った。

ここで問題となったのは、体制転換は既存体制打倒という形(いわばハードランディング)をとるしかないのか、それとも軟着陸(安楽死)もありうるのかという点である。

いわゆる急進派は前者を説き、ゴルバチョフの率いる中道派は曖昧な形をとりながらも軟着陸(安楽死)路線をとろうとした。その主要な柱は、共産主義から社会民主主義への秘かな転化である。

 

もともと共産党エリートだったゴルバチョフは最初から社会民主主義への転化を説いたわけではないが、ユーロコミュニズムや欧州社民勢力との提携には積極的だった。また彼の側近たちのなかには、早い時期から社民化の傾向を見せていた人たちがいた。

ゴルバチョフも1989年後半あたりから社民化の方向に傾斜しだしたが、そのことの公言は遅い時期まで避けていた。ゴルバチョフ自身が社民化路線を明確にしたのは1991年7月のソ連共産党中央委員会総会提出の新党綱領草案であり、同時に党名改称も日程に上った。だが、それから1ヵ月も経たないうちにクーデタが起き、この構想は死産に終わった。

結果的に生じたのはハードランディングであり,しかもそれは国家の解体を伴った。ただ単に旧体制が倒れただけなら、起きるべきことが起きたといって済ますこともできる。

だが、単に体制が移行したというだけでなく、その移行のコストはどのようなものだったのかという観点も重要であり、その点でいえば、この移行のコストが極度に大きかったということも忘れることができない。その後遺症は今日にまで及んでいる。

ソ連消滅から四半世紀を経た今日、当時とは異なった新しい展開が生じている。世界的に長期不況が続く中で、一時期わが世を謳歌した「資本主義勝利」論にも疑問符がつけられるようになった。

だからといって、社会主義再評価の時代が訪れたわけではない。かつての社会主義への否定的イメージは深く広く根付いており、グローバリズムやネオリベラリズムを批判する論者の多くも社会主義に傾斜しているわけではない。

ただとにかく、一時の全否定論のピークは過ぎ、再びこの歴史的対象に向かい合い、かつてよりも落ち着いた形で、その光と影の両面を冷静に考察するにふさわしい時期に来ているように思われる。