『龍馬伝』を見て知りました
明治維新で倒れた茶屋家とは対照的に、維新で日本を代表する財閥に浮上したのが岩崎弥太郎を総帥とする三菱だ。戦後、GHQによる財閥解体はありつつも、現在に至るまで三菱グループは日本経済の中枢で存在感を発揮している。
その岩崎弥太郎の玄孫にあたる衆議院議員・木内孝胤氏が明かす。
「岩崎弥太郎の母・三輪の影響だそうですが、岩崎家は家風として質実剛健という感じが強いですね。私は、三菱六代目当主の岩崎寛弥さんに子供のころから可愛がってもらいました。
ご自分が三菱銀行にいたにもかかわらず、学生時代の私が銀行に入りたいというと、寛弥さんは『銀行は支店長ぐらいにならないとつまらない仕事だ。飽きて辞めてしまうかもしれないぞ。そんな仕事をしても仕方がないから、いい経営者を紹介してやるので、丁稚をやれ』と言い張り、しばらく押し問答になりました。あのとき誰を紹介してくれるつもりだったのか、今となっては興味がありますね。
結局、三菱銀行に入社して寛弥さんの後輩になりましたが、周囲には一切、岩崎家の縁続きだとは言いませんでした。ロンドン駐在の時に寛弥さんが支店にいらして初めて周囲の人が知ったぐらいです。
そもそも自分としては岩崎弥太郎について、両親から聞いたことがありませんでしたし、どのような人物だったのか、大河ドラマの『龍馬伝』で知ったくらいですから(笑)。
その後、選挙に出るようになって、こうして取材で岩崎家のことを聞かれることも増え、自分なりに本を読んだり、親族の話を聞いて勉強しました。
時代が変わる変革期には、新しいことをやる人物が生まれてきますが、岩崎弥太郎は、そのような時代を背景に出てきた人だと思います。
よく商売人という描かれ方をしますが、大秀才で漢詩を勉強したりした博識だった。それに加えて商才もあったということなのでしょう。
弥太郎さんの影響とまでは言えませんが、私自身、迷う局面では、必ずチャレンジする道を選択してきました。ときどき、岩崎弥太郎さんのフロンティア精神を自分の中に感じるときがあります」
三菱と共に日本を代表する財閥といえば三井である。三菱と違って三井は代々「大番頭」が采配を振ってきた。戦前、三井の総帥として辣腕を発揮しながら兇刃に倒れた団琢磨は特に知られた存在だ。
だが、その団琢磨が、実は歴史に名高い豪商の子孫であることはほとんど知られてこなかった。
福岡市でフランス料理店を経営する神屋浩氏が言う。
「我が家の先祖は、神屋宗湛。日明貿易を手がけた博多の豪商として、豊臣秀吉を財政的に援助しただけでなく、気に入られて秀吉の側近となり、九州征伐や朝鮮出兵で御用商人として活躍しました。大茶人として、秀吉や千利休と交流した『宗湛日記』を残してもいます。
しかし秀吉死後、江戸幕府が開かれた後はその莫大な財力から警戒され、遠ざけられました。
茶の湯の縁もあり、宗湛は地元福岡藩・黒田家の御用商人となりますが、幕府は宗湛が黒田家と組んで謀反を起こさないよう、福岡藩に圧力をかけたほどだったそうです。
幕末の安政5年、神屋宅之丞に駒吉という四男が生まれ、子供のいない隣の団家に養子に行きました。この駒吉が後に団琢磨と名乗ったのです。
明治を迎えて神屋家は生活に窮し、宗湛が残した名茶室『湛浩庵』も切り売りするしかない状態でした。
そこで、団琢磨に仲介してもらい、玄洋社初代社長の平岡浩太郎先生に高い金額で買ってもらったといういきさつがあります。このとき入ってきたお金が最後で、その後は資産を使いはたしてしまいました」

博多は太平洋戦争中に何度も空襲を受け、宗湛たちが残した神屋家の名物茶器や古美術品は焼失、散逸。また戦後の混乱の中で代々の土地は行政に取り上げられてしまったという。だが、神屋さんはこうも話す。
「先祖代々の資産はほとんどありませんが、父・庄二郎が作ってくれた資産はざっくり1億円ほどはあると思います。
父は不動産経営が好きで、ちょうど高度経済成長期で地価も右肩上がりの時代だったことも手伝い、初めは自ら家を建て、それを人に貸して増やしていきました。サラリーマンと二足のわらじでしたが、宗湛譲りの商才があったのかもしれません。
父は宗湛以来の家訓を大事にしていました。17条もあるのですが要約すると『常日頃の暮らしは質素にし、お金は私利私欲のためには使わない。使うべき時はためらわず使いなさい』ということです。
宗湛自身、平素は食生活も質素で、日常は粟や稗、芋の蔓を味噌や醤油で食べていた。粗食であったが故に、あの時代に83歳まで長生きしたのでしょう」