20年以上前の館山駅で撮影された写真に映りこんでいたものとは?

過去の自分との思わぬ再会
片岡 義男 プロフィール

館山駅で切り取られた一瞬

プラスティックの椅子にすわっている僕の、右側のぜんたいが、その写真のなかにある。その僕の頭を指先で隠し、これは誰ですかと訊かれたなら、しばらく考えたあと、僕によく似てますね、と僕は言ったりもするだろう。頭、つまり髪の、後頭部の曲線は、ロカビリーの高校生の頃とまったく変わっていない。そしてそれはいまもおなじだ。

横から見た額、目の周辺、そして頬にかけてのトポロジーは、顔認識照合機にかけるまでもなく、ほんとに、嫌になるほど、僕そのものだ。母のお腹のなかで胎児として丸まって目を閉じていた頃すでに、僕の横顔はこうだったと断言しておこう。

僕は手ぶらに見える。もしオリジナルのカラー・スライドをルーペで点検すれば、革のストラップのついた一眼レフを持っていることが、確認出来るだろう。オリンパスのOM-1で、レンズは35-70の二倍ズームだ。フィルムは35枚撮が十本、ジーンズのポケットに入っているはずだ。

 

僕は呑気そうに見える。僕のかたちぜんたいが、それを見る人にそう思わせる。かたちとは雰囲気であり、雰囲気とは、呑気そうだ、という意味だ。では、呑気とは、なにか。それはどのような状態なのか。

関知してない、という印象がある。頓着してない。自分にとってすべてはろくでもないことだから、そのすべてを振り払ってしまったような状態、とでも言っておこうか。この呑気そうな人に、自分なんてないのだ、と僕は言いたい。自分なんてどこにもない、すっからかんの状態は、究極の呑気さではないか。

写真を撮りにいきましょう、と僕が佐藤さんを誘い、佐藤さんは応じた。なにかの連載をしていたかな、といまふと思う。文章と写真の連載があり、佐藤さんは写真を受け持っていたのではなかったか。このプリントの場面は、その帰り道だ。

時刻は夕方になったばかりだ。空の色を見ればわかる。地平線近くの空は落日の名残の赤い色で染められている。季節は秋だ。このプリントを見れば、誰もが秋という季節を感じるだろう。もはやけっして暑くはない。しかし、寒いねえ、と言い合うにはまだ早い。ちょうどいい季節、という言いかたがある。まさにその季節だ。

場所はJR内房線の館山の駅だ。僕たちは特急を待っている。夕方の五時過ぎの特急に乗ると、夜の七時過ぎに終点の東京駅に着く。特急は待っているその一本しかない。夕食は東京に着いてから、という算段だったに違いない。館山に向かったのは、午前十一時前後の特急でだろう。午後一時過ぎに館山に着き、昼食を食べたあと、四時半くらいまで写真を撮り、五時まで多少の余裕を持たせて、館山の駅に入ったのだ。

僕といっしょにプラットフォームにいた佐藤さんは三日月を見た。その月を広角レンズで画面の右上の端に置くと、被写体としては線路や跨線橋などに次ぐ二次的なものであったはずの僕をも取り込み、シンメトリックな画面に秋という季節すら映し撮ることが出来た。だから佐藤さんはこの写真を撮った。

『次の海まで100マイル』片岡義男・文 佐藤秀明・写真