20年以上前の館山駅で撮影された写真に映りこんでいたものとは?

過去の自分との思わぬ再会
片岡 義男 プロフィール

僕以外の誰でもない

跨線橋が跨ぐ二本の線路は、画面の奥から手前に向けて、直線の八の字だ。右側のプラットフォームにある小屋のような建物の手前に、乗客がすわって列車を待つための椅子がある。プラスティック製の座面をふたつずつ背中合わせに四つ、鉄のパイプでつなげてひとつにした椅子だ。

こういうものが、かつての日本にはいたるところにあった。いまでもたくさんあるだろう。しかしこのプラットフォームのこの椅子は、どこかの広大な不燃ゴミ捨場に、とっくの昔に打ち捨てられたはずだ。蓄積してやまないゴミの底に、ひっくり返って横たわったままだ。

この四つの椅子に三人の人がいる。向かって左側の椅子に並んですわっているのは、中年の女性たちふたりだ。そして右側の椅子にすわっているのは、この僕ではないか。この右側の椅子にひとりの男性がすわっていることに気づきにくいが、いったん気づくと、その人はこの僕以外の誰でもないほどに、僕なのだ。

さきほども書いたとおり、佐藤さんがこの写真を撮ったのは、二十年以上は前だ。それほどの時間が経過して去ったあとなのに、椅子にすわっているその人が僕であることは、ひと目でわかる。なぜ、そんなことが、わかるのか。なぜこの人は、これほどまでに、僕なのか。

佐藤秀明『カイナマヒラ』

ふたとおりの僕は同一人物なのだから、多少の時間は経過したとしても、これは僕だ、といまの僕自身が認識出来るのだろうけれど、その当人のいまの気持ちとしては、写真のなかの人は、この僕であり過ぎる。二十年以上も前の僕が、あまりにも僕であることを、いまのこの僕は、どのようにとらえればいいのか。

自分なのだから自分なのでしょう、という意見はきわめて平凡なものだ。その平凡さのなかからさらに言うなら、椅子にすわっている人の体型と、いまの僕の体型が、まったくおなじだと言っていいほどに、変わっていない。そのおなじ体型の人の、すわりかたが、僕そのものだ。これを、すわっている、と言っていいのか。すわっているように見えるかたちで、椅子の上にいるだけなのではないか。

左足の踵を路面につき、つま先を上げている。これも僕そのものだ。その左脚の上に右脚を組んでいる。右脚を左脚の膝より少し下の位置に横たえているだけだから、組んでいる、という言いかたは正しくない。その脚の組みかたは車引きの脚の組みかただ、ともう何年も前、年長の男性に言われたことがある。そのとおりの脚の組みかたを、この写真のなかでも、僕はおこなっている。

 

靴は黒い色に見えるが、黒い靴を僕はこれまでに履いたことがない。かつて履いていた、明るいカーキー色の革のブーツなら、黒には映らないはずだから、いまのシリオのトレッキング・ブーツになる以前の、ほどよいグレーのトレッキング・ブーツを履いていた頃なのだろう。ほどよいグレーなら、このような写真では黒く映る。

ジーンズはよく覚えている。Leeの明るく色を抜いたブーツ・カットの0120だ。クロゼットを探せば、いまでもどこかにあるはずだ。上半身に着ているのは、黒っぽい色のジャケットに見える。ウールのジャケットは記憶にあるのだが、ルーペでプリントをよく見ると、裾がジャケットの裾ではなく、シャツ・ジャケットのようなものの裾であることがわかった。

光量の少ないところで写真に撮れば黒いジャケットにも見えるこのシャツ・ジャケットは、ずっと以前、アメリカで買ったものだ。いまでも持っている。気に入っているからだ。色はまっ黒だ。あのシャツ・ジャケットをこのとき自分はすでに着ていたのかと自分に問うと、時間はまったく整合しないようにも思える。