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【落語のナゾ】なぜ同じ話を何度聞いても面白いのか?

三遊亭円歌が体現した「芸の真髄」
堀井 憲一郎 プロフィール

どこであれ、必ず笑いを取る

うまい落語家は、風景を現前させる。

降り積もった雪の中を逃げ惑う旅人の姿や、火事で蔵がねじ切れるように燃え落ちるさまや、渡し船がひっくり返った報せに街中が騒然とする空気を、ありありと見せてくれる。そういう古典落語を演じる者たちをみな誉め讃える。

三遊亭円歌はその技術を「自分のうちにはジジババが6人もいやがる」といういっけん他愛もない話のなかで駆使したのである。円歌にしか見せられない世界がありありと現れた。

泣かないし、感動しないし、どきどきもしない。

でも、笑える。ひたすら笑える。何回きいても笑えるのだ。

円歌を評して「受けなかった高座を見たことがない」というのを何回か聞いた。

同業者による評である。 

どんなところで演じても、必ず受けていた、ということだ。

これは、ほとんど最高の芸人であった、ということを意味する。

人気のある芸人だからどこでも受けるだろうとおもわれるかもしれないが、そんな簡単な話ではない。どんなに人気があろうと、受けないことがある。「蹴られる」と彼らは言うが、必ずどこかでは蹴られるものである。

人気の落語家が、蹴られている現場を私は幾度か見ている。地方の会場だったり、客席が半分以上空いている会場だったり、そもそも落語をやる環境でなかったりするからだ。誰にだって受けないことはある。

円歌はそれがなかったと言われるのだ。

おそらく本当にそうなのだろう。プロから圧倒的に信頼される芸人である。この人は、どこのどんな状況でも、必ず前にいる人を笑わせたのだ。

初代林家三平もそうだった。昭和30年代の日本の熱気が生んだ稀有の芸人たちだったのだ。

 

池袋演芸場のロビーで遭遇

いま原稿を書いていて、ふっとおもいだしたのだが、いちど池袋演芸場の昼席、あまり人も入ってない時間帯に(仲入りではなく誰かが舞台で演じている途中に)、私はなにげなく席を立ってロビーのほうに出た。

あまり客がロビーに出てくるタイミングではなかったからだろう、そこに円歌が座っていた。

池袋演芸場は楽屋が狭いため、ふつうに演者がロビーにいるが(そもそもロビーを通らないと楽屋に出入りできない)円歌は洒落た帽子をかぶり、マントのようなものを羽織り(マントだとおもう)座っていた。

ひとり、前こごみになって座っていた。

とても静かで、そして暗い雰囲気だった。

下をじっと見ていた。

気になったので(あれは円歌師匠かな、とおもって確かめがてらに飲み物を買う体で近づいていった)、近づくと、ふっと立って楽屋に入っていった。あのときの雰囲気が忘れられない。

芸人だからといって、一人のときに賑やかな人はいないが、しかしちょっと他人とは違う気配が漂っていた。何だか、地獄のほうを熱心に覗いているようだった。

べつだん寂しそうだったわけではない。孤独さが際だっていたわけでもない(売れた芸人はだいたい孤独感を漂わせている)。ただ、一心に何かを見ているような姿が、とても印象深かったのだ。

無防備なときの芸人には、その人の芯の何かが見えてくる。あの人は何かを抱えながらも、一心に一点を見つめている人だった。