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【落語のナゾ】なぜ同じ話を何度聞いても面白いのか?

三遊亭円歌が体現した「芸の真髄」
堀井 憲一郎 プロフィール

いつも自分の話をしていた

ここ10年で三遊亭円歌の高座を見たのは30回ほどである。

独演会に行ったのは一度だけで(そんなに独演会をやる師匠でもなかった)、寄席で見ることが多かった。会長時代には新真打の披露興行に並んで、決まったセリフを述べていた。

ときに鈴々舎馬風たちと一緒に口上の最中にどたばたと巫山戯(ふざけ)て、老人が居並んではしゃぐ風景などあまり目にするものではないから、大笑いして、胸うたれた。

感動はしていない。感動するようなものではない。ただ、寄席は明治の昔から、大人が必死でふざけた場所だったんだろうなと突然おもったりしただけである。

ずっとつながっている、とふと感じた。

円歌は、あまり古典を演じなかった。私が見たのは『坊主の遊び』ぐらいである。『我孫子宿』という落語らしい噺も聞いたことがあるが、これもまた古典とは言いにくい(新作である)。

いつも自分の話をしているように見えた。

自分の両親と、前妻の両親と、後妻(いまの妻)の両親の6人を引き取って、一緒に暮らしているという噺や、天皇陛下(先帝)の前で一席落語を話したときの噺や、自分が会った昔の芸人三亀松や歌笑の噺など、ふつうに聞いているかぎり、昔話を思い出して語っているように見えた。

もちろんそういう落語である。

それぞれにもタイトルが付いている。タイトルにはあまり意味がない。

寄席の高座では、噺家はきちんと古典落語を演じる場合もあれば、自分の身近に起こった話でつなぐこともある。知らずに聞くと、おもいついたまま、そぞろ話をしているように見えるが、ほとんどの場合そうではない。いま思い出しつつ話しているように見せて、じつに練り込んだ話になっている(漫〔そぞ〕ろの話なので漫談と呼ばれることもある)。

古典ではないが、これはこれで落語である。江戸の武士の世界や、長屋の世界を垣間見せてはくれないが、しかし笑いは取る。そういう落語であり、おそらくより本質に近い。

 

何回聞いても面白い

寄席の円歌は身近な話ばかりしているように見えた。

そうか、円歌は6人の老人と住んでいるんだ、とふつうに楽しく聞いていた。

よく考えるとこの円歌自身がおじいさんなんだから、もういまは6人の両親と住んでいないんじゃないかとおもったりするのだが、それはあとからぼんやりおもいだすことである。高座を聞いてるときはそういうことを考える余裕はない。

余計なことを考えさせない。

最初聞いたときは、ひたすら楽しい。2回目に聞くとまた同じ楽しい話だとおもう。3回、4回めには、前と同じだなとおもう。ところが6回、7回と聞き続けてくるうちに、また無闇やたらとおもしろくなってくる。そこが芸の力だ。

どこまで同じ話で受けさせられるか、そこが、力の差として出てくる。そういうポイントでは、三遊亭円歌は超絶した名人であった。