2017.06.23
# 政治政策

沖縄戦「最大の犠牲者」への訴えを、裁判長はわずか10秒で退けた

この国の司法は、彼らを見捨てるのか
栗原 俊雄 プロフィール

このままでは死にきれない

いずれにしても、なぜもっと早く訴訟に踏み切らなかったのだろうか。これは他の戦後補償裁判にも言えることだ。たとえば東京大空襲被害者による集団訴訟は2007年、大阪空襲のそれは2008年に始まった(それぞれ2013年、2014年に最高裁で敗訴が確定)。

被害者の多くが、自分の生活を再建し維持することに大きなエネルギーを割かざるを得なかった。さらに長い東西冷戦期、東側諸国と対立している中で自国を訴えるのははばかられた。

しかしその冷戦は終わった。さらに人生のゴールが見えてくるにつれ、「やはり納得できない。このままでは死にきれない」という気持ちになる人が多いのだ。

 

さて沖縄戦裁判では、原告側は驚くべき証拠を提出した。原告のうち39人が精神科医の診察を受けたところ、実に37人が戦場体験に起因する心的外傷後ストレス障害(PTSD)など外傷性精神障害を負っていることが分かった。戦争体験が、戦後70年近くたった裁判当時まで、原告を苦しめていることを医学的に証明したことになる。これを提出したのだ。

一方被告の国は、不法行為の時から20年(除斥期間)が経過することで請求権が消滅し、責任を負わなくてすむという「除斥期間経過論」を展開した。だが、先に見た証拠によれば、被害者たちは戦後70年近く自分が戦争に起因するPTSDなどであることを知らず、したがってその間は補償請求の権利行使ができなかった。国の言う「20年」は説得力に乏しい。

冷たすぎる地裁判決

また、裁判で明らかになった被害は、沖縄戦の過酷さを改めて印象づけるものであった。

【女性、1937年生まれ】 父が首里市で戦死。祖父とおじも死亡。本人は両足腿を銃弾が貫通。現在も後遺障害があり通院している。

【女性、1931年生まれ】 渡嘉敷島で家族6人が集団自決。本人と長女らは生き残ったが、長女は集団自決で背中から胸を貫通する傷を負い、2006年に亡くなるまで長く後遺症に苦しんだ。

【男性、1929年生まれ】 豊見城の自宅から糸満方面に避難、家族が民家に身を潜めているところに米軍の弾が飛来し母と妹が死亡。父も行方不明に。本人は戦災孤児となった。
 
判決は昨年3月16日、那覇地裁。鈴木博裁判長は判決を読み上げた。「原告らの請求をいずれも棄却する」。わずか10秒、主文の読み上げだけで裁判は終わった。

同地裁は「戦時中の行為には47年施行の国家賠償法は適用されず、民法の不法行為を根拠に現行憲法施行前の行為について国に賠償や謝罪を求めることはできない」などとし、訴えを退けた。

筆者が見る限り、少なくともこの10年に出た戦後補償裁判の判決の中で最悪の判決であった。すなわち、空襲被害者やシベリア抑留経験者らによる国賠訴訟も原告敗訴、という点では同じだ。しかしこれらについては、裁判所は多くの場合原告の被害を認定し、かつ原告たちが「差別だ」と感じる心情に理解を示した上で、立法による解決を促している。

ところが、この那覇地裁判決の場合、心情理解もなく、立法をうながしてもいない。さらに、画期的な外傷性精神障害の証拠についても言及がなかった。

沖縄戦国賠訴訟の原告は、福岡高裁那覇支部に控訴した。7月20日に結審する。判決は10月ごろの見込だ。那覇地裁の南洋戦国賠訴訟は4月19日に結審し、こちらも10月ごろ判決が下される。

他の戦後補償裁判にも言えることだが、裁判所はある意味でチャンスをもらっているのだ。行政が踏みにじった被害者たちの人権と尊厳、立法が放置してきた人権侵害を救済し、司法の役割を果たす、というチャンスである。これまではことごとく、この好機を逃してきた。被害者たちの年齢を考えれば、この先大規模な集団訴訟は難しいだろう。司法はその存在意義を試されていると思う。

10月の判決に注目したい。

 

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