悪魔に〇〇を売った男の悲しき末路~亡命作家のメッセージを読み解く

人間にとって一番大切なものはなにか
佐藤 優 プロフィール

影を売って残ったもの

1年後に悪魔と再会したときに、シュレミールは影を返してくれと訴える。悪魔は影を返すことには応じるが、シュレミールが死んだ後の魂を悪魔に渡すという条件を提示する。

〈「せっかくですが、おことわりです」

「おいやですって?」

男は目を丸くしました。

「それはまた、どうしてです?」

「魂と影とを取り換えるなんて、少々険呑ってものでしょうから」

「いや、ごもっとも、険呑険呑―」

と言葉を重ねてから男はプッと吹き出しました。

「ではおたずねいたしますが、あなたの魂とやらはいかなるシロモノですかな。ご自分の目でごらんになったことがおありですか? あの世にいってから、そいつを元手に何かを始めるおつもりですかね。

むしろ生あるうちにですな、魂といわれるわけのわからんシロモノ、電動力とも分極作用とも、何ともえたいの知れぬ講釈つきのシロモノと現実のものと取り換えておくほうが、よほど利口ではありませんかね。

つまりがご自分の影と取り換える。影さえあれば恋人はあなたのみもとにありでして、万々歳というものじゃありませんか。(後略)」〉

 

シュレミールはこの取引を断る。するとしばらく悪魔はシュレミールの後をついてきて、言葉巧みに魂と影の交換を説得する。最後まで取引に応じないと悪魔は彼から離れる。

シュレミールは「幸運の金袋」を穴に投げ捨て、貧困な生活に戻る。市場で偶然、瞬時に世界を移動できる靴を手に入れ、世界中を訪問する。しかし、影を取り戻すことはできず、人との関係を避けて一生を送ることになった。

シュレミールは自分の身に起きた出来事を記録に残し、その保管を友人シャミッソーに依頼する。

〈 愛するシャミッソー君、この不思議な物語の保管者として君を選びました。この地上から私がいなくなったあかつきには、だれかに少しはお役に立つかもしれません。それを念じてのことなのです。

友よ、君は人間社会に生きている。だからしてまず影をたっとんでください。お金はその次でかまわないのです。ともあれ、みずからに忠実に、よりよき自己に即して君は生きようとしているのですから、とやこうこんな差し出がましい口をきくのは余計なことというものですね〉

この物語は多義的に読むことができるが、影を民族とみることもできるだろう。民族は、目、鼻、口のように人間が必ず持っている属性ではない。理屈の上では人間は、いずれの民族にも所属しないで生きていくことができる。しかし、その場合、影を失ったシュレミールのように、社会から受け入れられなくなってしまう。

シャミッソーは、民族は影のようなもので実態はないと考えていたのであろう。しかし、現実の社会で生き残るためにはフランス人からドイツ人への転換を余儀なくされたのである。

同時に、目には見えないが確実に存在する魂の重要性をシャミッソーは説いている。影(民族的帰属)がなくても魂(良心)を失わないならば、人間は生きていくことができるという著者のメッセージが伝わってくる。

週刊現代』2017年6月3日号より