努力しても報われない人生はザラにある~馳星周「暗黒小説」のカタルシス

理想と現実の断絶に絶望するな
霜月 蒼

現実への不満に心が壊れる前に

こうして「日本」に眼を向けてからの馳星周の作品は、日本という国の抱える矛盾や理不尽に牙を剥くような凄みをたたえている。

沖縄で1970年に起きた「コザ暴動」を地べたの人間たちのせめぎ合いを通じて描き尽くした『弥勒世』、オウム真理教事件を下敷きに、カルト教徒と公安捜査員の地べたの視線から犯罪小説に仕立て上げた『煉獄の使徒』の2作が代表作。

犯罪小説/ノワール小説が、どれほどデカいものを相手にできるのかを、おそろしく野心的に証明してみせたといっていい。

『生誕祭』以降の馳星周は、果敢に「いまそこにある日本の歪み」に取り組んでいった。厄介すぎて敬遠したくなるのが人情だろう「原発と地方」の問題に、『光あれ』『雪炎』で挑んでいるのが好例である。

原発がなければ生きていけない、原発を肯定するほかない、そんな地方都市の苦悩を、前者では普通小説的なリアリズムで、後者では政治をめぐるミステリーのかたちで描き出してみせた。

原発。沖縄。公安。地方の疲弊。こういったものを「まあ仕方がない」と肯定する「現実主義」が覆いはじめたのと、馳星周が日本を見つめはじめたのは時期的に重なる。

世界の歪みを見つめ、「現実主義」に切り捨てられる個人のありようをすくいあげようとする馳星周の姿勢はロマンティックですらある。世界の現実と対立する個人の理想のもがき――それがさまざまなスタイルで描かれているのではないか。

自身の権力のために日本の歴史自体を書き換えようとする藤原不比等の物語『比ぶ者なき』も、大きな歴史という現実を己のために改変しようとする個人を描いた物語なのである。

 

最新作『暗手』では、いつになく「善意」が描かれている。サッカー選手の大森の無邪気さや、サッカーチームの勝利に大喜びする地元の人々の姿。それがあるからこそ、それを破壊するほかない主人公の苦悩が痛切に読み手に伝わる。

この分裂――悪意と善意の分裂、理想主義と現実主義の分裂。この苦痛を、馳星周は描きつづけている。その苦痛は、私たちも普段から顔なじみのもののはずである。

そんな馳星周の根本にあるのは、ある物語がもたらしたショックだった。1975年に放送されたアニメ版『フランダースの犬』の最終回である。

「努力すれば夢は叶うんだという世界に囲まれて僕は、少年時代を過ごしてきた。だから当然、ネロとパトラッシュも幸せになるんだろうと信じて疑わず、毎週楽しみに観ていた。ところが(略)」と馳星周は言う。そして続ける、「努力しても報われない人生がこの世の中にはたくさんあると思い知らされたわけです」

(出典:http://renzaburo.jp/shinkan_list/temaemiso/110225_book03.html

努力しても報われない――大人になった私たちが絶望とともに知る事実。理想と現実の衝突。願望と現実の断絶といってもいい。どれほど現実に傷つけられたとしても、私たちには、現実を破壊する手立ても根性もない。

だからといって、現実への不満を叫ぶ自分の内なる声を「悪いもの」として抑圧してしまっても無理がくる。心が壊れる。

そんなときに読むべきなのが馳星周なのだ。彼があなたの暗い声をすくいあげてくれる。たとえその物語のゴールが破滅だとしても、その暗いカタルシスは、あなたの抑圧された心を浄化してくれるはずだ。