創価学会が「都民ファースト」を擁護することで日本政治は翻弄される

なぜ国会より都議会を優先するのか
島田 裕巳 プロフィール

創価学会の「都議会選ファースト」

公明党にとって、あるいはそれを支持する創価学会の会員にとって、都議会選挙は国政選挙以上に重要だとされてきた。

その理由について、よくいわれるのは、「創価学会は宗教法人としての認可を東京都から得ているので、都議会に多くの議席を得ることで、認可の取り消しなどの事態が生まれないようにする必要があるからだ」ということである。

この説明には実は2つの誤りがある。

 

1つは、宗教法人は「認可」されるものではなく、「認証」されるものだということである。

認可であれば、学校法人のように国が定める基準を満たしていなければならない。ところが、認証の条件はさほど厳しくはない。宗教法人については、本尊が定められていること、その本尊を安置する場所の不動産を所有していること、そして宗教活動の実績があること、こうした条件を満たしていれば、原則、認証されるのである。

ただ、オウム真理教の事件が起こったりしたため、現在では簡単には認証されないともいわれる。だが、認可ではない以上、国や地方自治体から「宗教法人」としてのお墨付きを得ているというわけではない。

さらに創価学会は、かつては東京都知事から認証を受けていたが、現在は文部科学大臣から認証された宗教法人になっている。

となれば、公明党・創価学会の都議会選選挙重視はそうした理由からではないということになる。

「都議会>衆議院」の起源

創価学会が、組織のなかに文化部というものを作り、政治の世界に進出した際、最初の選挙は1955年4月の統一地方選挙だった。そのとき、23区の区会議員に加え、都議会でも1議席を獲得している。

そのとき都議会議員になったのは、創価学会の理事長だった小泉隆である。当時の会長は戸田城聖で、理事長の小泉は戸田に継ぐ大幹部だった。

小泉に限らず、幹部が立候補し議員になっていったというのが、創価学会の政界進出当初の特徴である。

翌56年には参議院選挙にも候補者を立て、全国区で2名、大阪地方区で1名が当選する。やはり議員になったのは創価学会の大幹部であった。

そして、文化部は公明政治連盟に発展し、64年には公明党が結党される。戸田は58年に亡くなっており、60年からは池田大作が第3代の会長に就任していた。

1950年代の半ばから60年代にかけては、創価学会が急激に信者を増やし、もっとも精力的に活動していた時代だった。

戸田は、衆議院への進出や政党の結成はないとしていたが、池田は、その方針を変え、公明党は衆議院にも進出することになった。第1党になり、池田を首相にしようというのが目標だった。

ただ、公明党結党の前の年に衆議院選挙があり、その後、すぐに総選挙にはならなかった。これが、思わぬ状況を生むことになる。

公明党として臨む最初の衆議院選挙では、都議会議員になっていた創価学会の大幹部たちが、候補者になるはずだった。衆議院も都議会も任期満了で、ということになれば、1967年に選挙があるはずだった。

そのため、大幹部たちは、63年の都議会選挙に出て都議会議員になっていた。

ところが、65年に、都議会議長の選出をめぐって自民党の汚職事件が起こる。いわゆる「東京都議会黒い霧事件」である。この影響で都議会は解散するが、任期途中であったため、大幹部たちはそのまま7月の選挙に臨み、都議会議員になった。となると、67年1月の衆議院選挙に出るわけにはいかなくなった。

この衆議院選挙での都議会議員から衆議院議員への鞍替えは、選挙後に公明党委員長になる竹入義勝だけで、他の当選者は、みな創価学会の若い会員たちばかりだった。ある程度の役職には就いていても、決して大幹部ではなかった。

たとえば、竹入は40代になったばかりで、書記長になる矢野絢也もまだ34歳だった。これによって、大幹部の都議会議員団と若手の衆議院議員たちという関係が生まれた。そのため、自ずと力関係は都議会議員団の方に傾いた。そこから、「公明党の中心は国政ではなく、都議会である」ということになったのである。そしてこの体質は今に至るまで続いているのである。