テロ等準備罪が「現代の治安維持法」と言われることへの大きな違和感

何が似ていて、何が違うのか
中澤 俊輔 プロフィール

一方、ジャーナリズムや学者、そして野党は、文言が曖昧である、宣伝を罰することは言論や学問の自由を侵害する、として反発。野党憲政会に近い貴族院議員からも批判が出たため、法案は貴族院で修正され、衆議院で審議未了となった。

また、検察を管轄する司法省は法案を推進したが、警察を管轄する内務省は出版物や結社を裁量的な行政処分で取り締まっており、既存の法令と重複する新しい取締法に慎重だった。法案が挫折した背景には、与野党の対立や貴族院の抵抗、関係各省の不一致があったのである。

翌1923年に関東大震災が発生すると、第二次山本権兵衛内閣は、デマを原因に朝鮮人が殺傷されたことを受けて、風説の流布や流言蜚語を取り締まる治安維持令を制定した。この緊急勅令は拡大適用されるおそれもあったが、実際は慎重な運用が行われた。

1924年には、憲政会、政友会、革新倶楽部を連立与党とする加藤高明内閣が発足した。前年の1923年末には摂政宮(昭和天皇)を狙ったテロ――虎ノ門事件――が発生していた。

また、加藤内閣では1925年にソ連と国交を樹立したことで、ソ連のコミンテルンと国内の共産主義者の運動が活発化することが想定された。国内外に不安要素を抱えるなかで内務省と司法省は利害を一致させ、治安維持法を起草したのである。

同じく1925年に男子普通選挙を導入するにあたり、過激な思想を懸念する枢密院を説得するために治安維持法を抱き合わせたという面もあった。

加藤内閣は連立内閣として治安維持法の成立を支えた。実は与党内にも革新倶楽部を中心として法案に反対する議員がいた。起草作業が難航するなか、憲政会の若槻礼次郎内務大臣と政友会の小川平吉司法大臣は与党を説得し、内務省と司法省を調停した。

完成した法案は、思想の宣伝を直接には処罰せず、運動の拠点となる結社を取り締まる形式をとった。思想宣伝への対策は喫緊の課題であったが、過激社会運動取締法案の失敗を踏まえ、言論の自由に配慮した面もあった。

 

なお、首相の加藤高明は思想を取り締まることに消極的であり、ソ連と協定を結んで共産主義の宣伝を抑制することを提案していた。

治安維持法は帝国議会の審議を経て、1925年4月22日公布された。国体の変革または私有財産制度の否認を目的とする結社を処罰するほか、協議、煽動、利益供与を処罰の対象とした。なお、自首した場合は罪を減免された。

内務大臣の若槻は法案の趣旨説明で、無政府主義や共産主義の実行を取り締まるものであり、労働運動には適用されないと説明した。

しかし、治安維持法は拡大適用されてしまった。一体何が問題だったのか。