【ゼロからわかる】ポピュリズムとは何か…一言でいえますか?

明快な定義とその統治手法
池田 純一 プロフィール

ポピュリズムの「定義」

ところで、当の『ポピュリズムとは何か』であるが、原書は昨年9月に出版された。ちょうどアメリカ大統領選の本戦が始まる時期であったため、出版直後から、トランプ旋風を説明するものとして、多くのメディアから注目を集めていた。

ここで「多くのメディア」というのは、アメリカのメディアだけでなくヨーロッパのメディアを含む。ミラーの政治評は、たとえばイギリスのリベラル紙であるThe Guardianのサイトにも掲載されている。

つまり、ある国の政治状況について論じる行為自体がすでに十分国際化している。その意味で、ミュラーの視点は、言葉の意味どおり、国際的である。

実際、『ポピュリズムとは何か』においても、複数の国におけるポピュリズムの事例がごく普通に語られる。国際比較を踏まえた上で、その本質が語られる。つまり「ポピュリズム」のような「イズム」の論じ方もまた、特定の言説がウェブによって短期間のうちに国境を越えて流通可能になったメディア状況を踏まえたものとなっている。

そうしてその言説は、ボトムアップで正当性を獲得し、一定の社会通念として受け止められていく。

ではミュラーから見たポピュリズムとは何であるのか。

まずミュラーの視点に立った時、ポピュリズムには一切、肯定的な要素がなくなる。端的にデモクラシーの破壊者という〈悪〉として位置づけられる。代表民主政の影、デモクラシーの暗部であり、放っておけばデモクラシーを内部から破壊する悪魔である。

ポピュリズムとは、デモクラシーの流儀を否定せずに内部から食い散らす寄生虫ないしはウィルスのような存在なのだ。

 

こうした「ポピュリズム=悪」認定の背後には、ミュラーがポピュリズムの最大の特徴として「反多元主義」に注目していることがある。「自分たちだけが人民だ」という一種の選民性のことだ。それはまた、自分たちの賛同者以外の存在を一切「われわれ」には組み込もうとしない「非寛容さ」を意味している。

ミュラーが注目するのは、ポピュリストが揃って口にする次の言葉である。

「自分たちが、それも自分たちだけが真の人民を代表する。」

ポピュリストは「(人民の)99%の代表」などではなく、完全に「人民の100%の代表」である。当然、この言い方が成立するには、自分たち「以外」の「他のもの」たちを徹底的に排除することが前提になっている。

厄介なのは、この「100%の人民」の特性として「道徳的である」ことを、いずれのポピュリストも主張することにある。

つまり、「道徳的に無垢で正しい」人びとこそがポピュリストの支持者であり、逆にその道徳性を損ねた存在の典型が「腐敗した政治家や官僚」といった「エスタブリッシュメント」であるというとロジックなのだ。

理性にではなく道徳性=モラル、すなわち「人間性」に訴えることで、排他的行為をしてもそのすべてが正当化されてしまうし、当の支持者たちは、それをおかしなこととは思わなくなってしまう。そこから「反多元主義」が蔓延していく。

反多元主義――これこそがミュラーの「ポピュリズム認定」の要であり、それを明確にすることで、いわゆる草の根の、「下から」の改革を目指すような、デモクラシーの本来の原則に則った運動と一線を引く。

ここからたとえば、エリート批判はしても、決して反多元主義を掲げないバーニー・サンダースの場合は、ミュラーの目から見ればポピュリズムには該当しないことになる。そうして、草の根の、下からの改革そのものはデモクラシー内の正常な活動であることを担保する。

同様に、通常はポピュリズムという言葉の発祥として紹介される、19世紀末のアメリカにおける「人民党(Populist Party)」の動きも、デモクラシー内でのプロテストに過ぎず、ポピュリズムには当たらなくなる。こうした理屈で、マクロンもまた、ポピュリストではなくなるわけだ。

裏返すと「よいポピュリズム、悪いポピュリズム」という形容は、ミュラーの世界では不可能であり、およそポピュリズムとは「デモクラシーの敵」である。

ポピュリズムは悪なのである。