楽天・オコエ瑠偉に立ちはだかる「壁」〜一流と超一流は何が違うのか

野球選手の人生は13歳で決まる(6)
赤坂 英一

遊びみたいなもんだった

よく知られているように、オコエはナイジェリア人の父、日本人の母を持つハーフである。1997年7月、東京都東村山市に生まれた。瑠偉はルイ・ヴィトンから採られており、元サッカーの日本代表・ラモス瑠偉に倣って同じ漢字を当てている。

ナイジェリアではサッカーが盛んで、父・ボニー(56歳)は当初、オコエをサッカー選手にしようとした、とも報じられた。が、オコエ本人は笑って首を振った。

「小さいころはいろんなスポーツをやってましたね。サッカー、ゴルフ、バスケットボール。そうやって子供を育てるのがナイジェリアのスタイルですから。

習い事というより、遊びながらうまくなる感じ。家にはバスケのゴールもあったんで、よく妹(桃仁花・18歳)と一緒に遊んでたな」

母・早苗(45歳)も、若いころはバスケットをやっていたという。家にゴールリングを付けたのも、母の考えだろう。

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オコエが野球を始めたのは6歳で、近所の経験者に手解きを受けたことがきっかけだ。小学1年で東村山ドリームというチームに入団し、「最初はユニフォームが嫌いでTシャツに半パンで野球をやってました」というところがオコエらしい。

198cmとオコエより一回り大きな父・ボニーは、息子に野球をさせることにとくに熱心だったわけではない。貿易関係の仕事でナイジェリアに行き、家を空けることも多かったため、「一時はなかなかお父さんに会えない時期もありました」とオコエは振り返る。

それでも、素質は味方も敵も圧倒していた。

「地元でやっていた相手は、投手の投げる球が遅過ぎてね、簡単にホームランを打てちゃう。ショートゴロでもぼくの足で走ればセーフになるし。正直、それほど力を出さなくても勝てました」

 

小学1年で相手を見下ろしているほどだったのだ。6年で3番・捕手となり、都大会2連覇、関東大会3位。さらには巨人のジュニアチームにも選ばれ、NPB12球団トーナメントで準優勝。そうした活躍が地元の中学生チームの名門、東村山リトルシニアの監督・渡辺弘毅の目に止まった。

ここでも、オコエの力は中学1年から頭抜けていた。渡辺が振り返る。

「守備と走塁に関しては抜群でした。1年生で3年生の試合に出られたぐらいです。捕手から外野手に回したら、フライの落下点に入る足の速さ、送球する肩の強さ、どちらも一番でした。盗塁にしても、ふつうの子なら教えられてもできないセンスを最初から持っている。だからいつもノーサインで走らせていました」

最大の課題は、のちにプロで壁にぶつかる打撃だった。渡辺が続ける。

「身体的特徴として手足が長い。上半身の力も並の中学生とは違う。力任せにバットを振り回しても届くし、当たったら飛ぶんです。でも、そんな打ち方を続けていると、どうしても上半身が突っ込んで、バットが遠回りするようになっちゃう」

いわゆる「手打ち」の状態で、ふつうの子なら凡打するから直しようもあるが、オコエはなまじヒットにできるから打ち方を変えられない。そのため、「中学ではずっと下半身を使う打撃ができないままだった」というのが渡辺の悔恨である。

しかも、オコエはよく練習をサボった。外野の守備練習の最中、「ションベン行ってきます!」と言っては、グラウンドの右翼側にあるトイレに消えて、1時間も2時間も帰ってこないのだ。

オコエが反論する。

「サボったのはぼくだけじゃありません。チームのみんなと、サボる番を回してたんです。トイレで寝てたやつもいれば、近くで焚き火にあたっていたやつもいる。遊びみたいなもんだったんです」