「ジュリ扇」進化論~バブル絶頂のディスコを語ろう

荒木久美子と甘糟りり子とDJ OSSHYが…
週刊現代 プロフィール

勝負のチークタイム

OSSHY あのころは、DJをやっていると、曲のリクエストカードにチップがついていました。お二人はバブリーな遊び方はしていたんですか?

荒木 私はいつも電車で通っていましたが、行きの電車賃だけあれば遊べちゃう。ディスコは顔パスだし、食事は全部男性のおごり。踊っているとチップをくれる人もいたので、帰りはかえってお金が増えたぐらいです。

甘糟 私はチップなんてもらったことはありません(笑)。たまに、ご飯をおごってもらったくらいかなあ。

OSSHY VIPルームでは大枚をはたいてシャンパンタワーをやるお客さんも珍しくなかった。外タレ、芸能人、スポーツ選手なども、よく出入りしていました。店の黒服が、フロアにいる女の子をVIPルームに付けるんですよね。

荒木 黒服が「俺のお客さんで超お金持ちの人がシャンパンおごってくれるから、一緒に飲まない?」って声をかけてくるんです。黒服は大人気でしたね。ファンクラブまであって、出待ちしている人もいましたよ。

甘糟 ところで、オッシーさんはどうしてディスコDJの道を歩まれたのですか?

OSSHY 私のディスコ初体験は'81年です。当時、高1で、先輩に連れられて渋谷の「ラ・スカーラ」に行き、そこで初めて耳にした音楽に衝撃を受けました。

以来、「ラ・スカーラ」に通いつめ、翌年の'82年からは同じ渋谷の「キャンディ・キャンディ」で見習いDJを始めました。

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甘糟 私も高校生の頃に「キャンディ・キャンディ」に行きましたから、絶対オッシーさんにも会っていたと思います。高校時代は、ディスコで会う人がみんなカッコよく見えました。

荒木 私が初めてディスコに行ったのも16歳ぐらいでしたが、「すごい大人の世界だな」って思いましたね。学校と家の往復では決して見られない、キラキラした感じがディスコにはありました。

甘糟 当時、平日夕方にやっていた番組「ぎんざNOW!」で『サタデー・ナイト・フィーバー』('78年日本公開)を知り、ディスコにハマりました。

 

荒木 あの映画のおかげでディスコが特殊な人たちのカルチャーではなくなりましたよね。

甘糟 '70年代の有名ディスコ、赤坂の「ムゲン」や「ビブロス」は、特殊な業界の人たちや芸能人が集まっていたとか。普通の学生が行くようなところじゃなかった。

OSSHY 『サタデー・ナイト・フィーバー』以降、サーファーディスコブームが起こりました。当時「陸サーファー」という言葉が生まれましたが、マリンカルチャーとディスコがこのとき融合したんです。

甘糟 サーファーディスコ時代の曲も懐かしいです。チェンジの『パラダイス』がかかると、全員が同じ方向を向いてステップを踏みながら90度ずつターンしていくのが盆踊りみたいで面白かった。みんなについていけないと、「はじめて来たな」とバレちゃう。

OSSHY 日本人の場合、有名な曲じゃないと盛り上がれないですからね。欧米人は知らない曲でも、だんだんリズムをつかんでノってくるんですが。

荒木 まさしく、盆踊りのノリが身にしみついた日本人ならではなんでしょう。欧米のリズムを乗りこなすのは難しかったんです。

OSSHY そして'80年代前半のディスコでは、チークタイムが必須でした。店内を暗くしてスローミュージックを流した瞬間に、みんながパッとフロアに出てくる。大体、午後10時台半ばから始まるので、その時間を狙ってやってくるお客さんもいました。

甘糟 相手が見つからず、その瞬間にダンスフロアからいなくなっちゃう人もいましたね。