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文学と建築のあいだ 〜なぜまったく違うジャンルなのに響き合うのか

『建築文学傑作選』刊行記念特別対談
青木 淳, 平出 隆

類推的思考の奥深さ

平出:この建築文学アンソロジーを編まれるときに、海外の文学って考えましたか。

青木:考えました。

平出:具体的な作品名で言えば、たとえば何?

青木:ボルヘスとかイタロ・カルヴィーノ、それから地味だけど「ストリート・オブ・クロコダイル」、邦訳だと『大鰐通り』っていうブルーノ・シュルツの作品とか、カフカとか。

最初は国内国外ということはあんまり考えなかったんです。でも海外作品は無限にあるから、選ぶのが難しいんですよね。日本だって無限にあるけど、海外はもっとあって、読んでないものもすごくいっぱいあって。平出さんの作品は『遊歩のグラフィスム』から「日は階段なり」を選ばせていただきましたが、良かったでしょうか。

平出:あの解説は驚くべき批評でした。

先ほど二つのジャンルが呼応し合うという話をしました。「アナロジー」という言葉がふさわしいかなと思うんですけど、違うジャンル同士で呼応しあうときに、一方のジャンルで作られたいくつかの要素の関係が、もう一方のジャンルで同じようにつくられている。

で、線を引くように一対一の対応ができるわけですけど、それが何本も引ける。自分が経験していないことなのに、ちょっと聞いただけで分かるというのは、そのアナロジーの作用が働いてるからだと思うんですね。

この『遊歩のグラフィスム』という本自体、雑誌連載をまとめたものなので1章ずつの長さが階段の踏面のように一定なんですが、そこまでは自分でももちろん意識してるわけです。目次の組版も階段状に組んだりして。

ところが青木さんは解説で、書いた私が意識していないところを指摘されました。階段っていうのは段鼻、踏面、蹴上げがあり、「日は階段なり」ではそれについて書いてるんですが、書いてるその文章そのもののこの部分が段鼻である、じゃあ蹴上げはどこか、と。

これがアナロジー、つまり類推的思考の基本だと思うんですね。

それについては解説者自ら答えを出しておられて、この2行空きのところが蹴上げであると。本当にびっくりしましたね。自分の書いたものをあらためて見て、そういえばそうなってる、みたいな。これが理想的な批評だなと感じ入りました。

 

青木:建築でも批評って分野がありますが、確かに、自分が無意識にやってることを意識化してくれると、先にちょっと進めるかなって思うことはありますね。

平出:青木淳悟さんの「ふるさと以外のことは知らない」という作品の解説で「発注主」という言葉が出てきますね。建築においてはもちろん発注する人がいて、建築家は受ける側なわけですけども、その発注主を文学にたとえたらどうなるのかと。これも非常に奥が深いなと思いました。

文学の場合、もちろん編集者がこういうのをやりませんかと言ったりするのは発注の一種ではありますけども、本質的な意味で発注主を探すと作家自身になる。あるいは広い意味での読者かもしれない。そこがよく分かるし、違うジャンルの共通点を見出してもいるなと思ったんですね。

青木:確かに、小説を読んでいて感動するのは多分そこで、あ、これ、建築のこのテーマと同じことを文学の中でもやってるんだ、とか、そういうアナロジーを感じますよね。

この解説の書き方もそうだと思うんだけど、建築では「こうだ」って断言しちゃうと嘘になるわけです。あくまで並行関係。一対一で対応するけど距離がある。

それから直接的に、例えば文学で行われていたことを、そのままの形式で建築に持ってきても絶対うまくいかない。学生時代はそういうことやってみようと思ったことがなくはなかったけど、うまくいかないんです、だから多分直接的にはないんですよね。

平出:ただ後になってわかるとか、あるいは違うジャンルのものを見て、ひょっとして自分がやったこととかなり近いことをやってるんじゃないかなって思うことはありますよね。

青木:青森県立美術館は、僕なりには須賀敦子体験に近いです。須賀敦子作品の解説でル・コルビュジエという建築家のことを書きましたけど、それもちょっと近いところがあって、須賀敦子作品の迷宮性は、コルビュジエがやった迷宮性とはちょっと違うものになっています。その迷宮性をもっと先へ進めるとどうなるんだろうと僕なりに考えたのが、あの美術館なんです。