ルペンの正体(1)成り上がり政治ファミリーの系譜

父が「国民戦線」党首になるまで
国末 憲人 プロフィール

妻はモデル風

ルペンとプジャードの関係はすぐに悪化した。

翌1957年、ルペンはプジャード派を離れて無所属となり、翌年には再選を果たした。彼はこの時、右派の本流ドゴール派から声がかかるかと期待した。しかし、一向に音沙汰がない。

中道政党が彼との連携を模索したが、こちらもうまくいかなかった。

逆に右翼暴力集団からの誘いもあったが、これは明確に断ったという。ルペンはあくまで政治の世界で生きていこうとしており、テロや街頭運動で世の中を変えようとする意図は持ち合わせなかった。

当時、ルペンはまだ「右翼」のレッテルを完全に貼られておらず、人脈と相性次第では右派または中道の政治家としてやっていく可能性が残っていた。

1962年の総選挙でルペンは落選した。それからの10年あまりは、彼にとって苦節の時期である。当選がかなわず、食うにも困り、「SERF」と名付けた代理店を立ち上げて東西の有名政治家の演説や各国歌謡のレコードを販売したりもした。ドイツ歌謡のレコードの歌詞カードにヒトラー礼賛と取られる部分があったとして罰金を食らってもいる。

一方で、この間も彼と苦楽を共にした仲間たちは、後までも親交を深め、国民戦線発足後は党の要職を占めた。ジャン=マリー・ルペンが幸せな家庭を築いたのもこの頃だった。

 

ルペンの最初の妻は、フランス南西部のワインのネゴシアン(卸売業者)の娘ピエレット・ラランヌである。

ピエレットは再婚で、前の夫との離婚手続きが長引いていた。ルペンとの最初の娘マリー=カロリーヌが生まれたのは、ようやく離婚が成立して10日後の1960年1月である。その年の6月、ルペンとピエレットは結婚した。

ピエレットは明るく、お祭り騒ぎが大好きな女性だった。スタイルが良く、自ら「私は美人」と言うほどの魅力を誇った。政治一辺倒のルペンとは「不釣り合いだ」と周囲はささやいた。これが後に騒ぎを起こすことになる。

2人は、1963年に次女ヤンをもうけた。続いて、1968年には三女マリオン=アンヌ=ペリーヌが誕生した。後のマリーヌ・ルペンである。

ジャンとピエレットと次女ヤン次女ヤンの結婚式にて。右端がピエレット。1987年〔PHOTO〕gettyimages