ルペンの正体(1)成り上がり政治ファミリーの系譜

父が「国民戦線」党首になるまで
国末 憲人 プロフィール

虚実混ざる従軍体験

パリ大学法学部は当時、カルティエ・ラタンの中心パンテオン広場にあった。その後身が、リュクサンブール公園を挟んで反対側のアサス街に位置するパリ第2大学である。

ここの学生には当時も今も、右翼的な傾向が強く、一般的に左翼が優勢なパリの他の大学とは一線を画す。1980年代半ば、私はこの大学で学生時代を過ごしたが、当時盛んだった左翼デモに学友たちはほとんど参加しようとしなかった。ちなみに、娘のマリーヌ・ルペンもこのパリ第2大学の出身である。

学生ジャン=マリー・ルペンは、勉学よりもパリ生活を謳歌した。大学のラグビーチームに所属して汗を流し、仲間とつるんで飲み歩いた。乱暴さは相変わらずで、酔っ払ってはキャバレーの用心棒やカフェの給仕とけんかをした。

一方で、彼は右派系の学生団体に所属し、その巧みな弁舌から急速に頭角を現した。

 

この頃、世界ではすでに冷戦が始まっていた。インドシナ半島や北アフリカで植民地の独立機運も高まっていた。社会主義や植民地独立を支持する左翼と、これに抗する右翼ナショナリズムに、一部の学生たちの意識もわかれつつあった。

6年かけて大学を卒業した後、ルペンは軍に入り、落下傘部隊の一員として1954年7月、インドシナ戦争に派遣された。

従軍体験は、ルペンが自慢する経歴である。ただ、最前線で戦ったわけではないようだ。インドシナ戦争の場合、フランスに撤退を強いたディエンビエンフーの戦いは、ルペン到着の2ヵ月前に終わっていた。ルペンはサイゴン(現ホーチミン)で雑誌の編集に携わり、地元にいるフランス人女性とロマンスを紡いだ程度の足跡しか残していない。

この後アルジェリア独立戦争にもルペンは赴いたものの、大きな役割を果たしたとはやはり考えられていない。ルペンはこの戦争で暴行を受けて左眼を失明したと言いふらし、海賊風の黒い眼帯を一時期身につけていた。実際には病気による失明で、戦争とは関係がないという。

ジャン=マリー・ルペン黒い眼帯をつけていた。1972年〔PHOTO〕gettyimages

しかし、ルペンは傷痕をさらし、戦争で傷ついた姿を示すことで、愛国者としての自らを売り込んだのだった。

インドシナ戦争から戻った後の1956年、ルペンは総選挙に立候補して当選し、国民議会議員となった。まだ27歳で、最年少議員の一群の一角を占めていた。所属会派は、当時一世を風靡した右翼運動プジャード派である。

ピエール・プジャード(1920—2003)が率いたこの勢力は、商工業者への増税反対を主な主張として掲げ、反ユダヤ的な傾向も持っていた。戦後広がった政治不信を背景に大きな支持を集め、この総選挙ではルペンを含め52人の当選者を出した。

ルペンはそれまで、父と同じ名前ジャンと呼ばれていたが、議員就任を機にジャン=マリーへと改名した。