ルペンの正体(3)マリーヌが権力を握り、父と決裂するまで

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マリーヌは成績優秀で、記述問題よりも口頭試問で特に目立っていた。

入学したパリ第2大学は右翼的傾向が強く、国民戦線の青年組織の活動も活発だったが、マリーヌはこれに近寄らず、勉学に集中した。三人姉妹の中では最も政治に距離を置いていた。

フランスの大学の学部3年間と修士課程の4年目を終えると、マリーヌは弁護士養成校に進んだ。論述よりも弁論が秀でているのは相変わらずで、その才能に皆が感心した。

一方、左派が多い法曹界で「ルペン」という名は奇異な目で見られ、インターン先を見つけるのにも苦労した。最終的に父の知り合いの弁護士事務所に身を寄せつつ、主に不法移民を裁く即時出頭事務所でボランティアの弁護活動を始めた。

1992年、マリーヌはここで、強制送還されそうになったアルジェリア不法移民の弁護を担当した。その移民は1歳の時に家族とともにフランスに渡り、30年間をフランスで過ごし、すでに母国には身寄りがいなかった。

送還を阻止するために、マリーヌは奔走した。移民排斥をうたう国民戦線の方針とは正反対の対応である。そのことを問われたマリーヌは「何の矛盾もない」と答えた。

「国民戦線は、何十年にもわたってフランスが続けてきた移民政策と闘っているのであって、個人が標的ではない。各人はそれぞれの利益と問題を抱えている。彼らの権利を守るのが弁護士としての仕事だ」

 

もっとも、彼女の行動は、党内で「不法移民を助けるなんて」と不評だったという。

弁護士としての地位を確立すると、国民戦線の幹部や党員の弁護が次第に舞い込むようになった。

1995年頃以降、彼女は党本部に頻繁に出入りした。1997年には党中央委員に名を連ね、1998年には新設の党法律顧問に就任した。また、この年には北部のノール・パドカレ地域圏議会議員に就任し、政治家としての一歩を踏み出した。

若手を率いる

ただ、父から娘へと権力がすんなり禅譲されたわけではない。ジャン=マリー・ルペンの後継狙う党の古参幹部らは、マリーヌを警戒し、冷たく接した。

マリーヌは2005年前後から、父の後継となることを明確に意識し、若手の支持者らとともに活動を始めたといわれている。

2006年、彼女は『ルモンド』紙のインタビューに応じ、後継問題について「まだ議題にはなっていないが、いつかは『その後』が来るだろう。間違いなく私はその候補となる」と述べ、自らが党を率いる意欲を表に出した。

彼女の周囲には、党の現状に飽き足らない若者たちが集まるようになった。その筆頭は、姉カロの夫フィリップ・オリヴィエだった。「共和国民運動」に参加した彼は、1年あまりでその活動に失望して国民戦線に戻っていた。才気は相変わらずで、マリーヌの下でスタッフの統率役を務めた。

マリーヌの側近グループには彼の他にも、策士ニコラ・ベー、エナンボモン市長となるスティーヴ・ブリオワら、1999年の分党の際にブルノ・メグレに従った若者たちが少なくなかった。彼らはマリーヌの下で、現代的で洗練されたナショナリズム・ポピュリズム運動を築こうと試みた。

2007年春の大統領選で、父は惨敗した。前回から100万票近く得票を減らし、4位にとどまった。この頃から父は急速に老け込んだ。一方、娘は次第に党内で主導権を握り、北部の旧炭鉱都市エナンボモンに居を定めて地方政治にも本格的にかかわった。

2011年1月の党大会で、彼女は後継党首に選ばれた。翌年には大統領選に立候補し、左派のオランド、右派のサルコジに次ぐ3位を占めた。続いて、2014年の欧州議会選で国民戦線が全体の約4分の1の支持を集め、国内第一党の地位を得た。

国民戦線はかつて、ブルジョアや年配層からばかり支持を集めていた。しかし、マリーヌが党首に就任する頃と前後して、労働者や農民らに代表される、グローバル化の敗者らの支持を吸収するようになった。

その背後では、差別的な右翼のイメージを払拭し、近代化、大衆化路線を打ち出したマリーヌの戦略が功を奏していた。

党内でしばしば問題になる差別発言や過激な言動に対して、マリーヌは厳罰をもって臨むことで、党の体質を変えようとしたのである。