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日本人が実感しづらい「ローマ教皇」絶大なる影響力と苦悩

複雑化する社会の中で…
岡本 亮輔 プロフィール

日本人にはイメージしにくい存在

日本の宗教文化には教皇と同じような存在は見つけ出せない。

神社本庁や仏教宗派のトップとも、新宗教の教祖のような存在とも異なる。教皇はカトリックの聖職者であるから、基本的には世襲でその地位が引き継がれることはない。一般的な日本の宗教文化の感覚からは、なかなかイメージしにくい存在なのだ。

教皇という存在の分かりにくさの理由の一部は、キリスト教の神観念と教皇の無謬(むびゅう)性にあるだろう。キリスト教の神は絶対に間違わず、神の地上の代理人である教皇もまた神の意志を伝える限りにおいて間違わないと信じられているのである。

宗教学では、キリスト教は一神教に分類される。日本の宗教文化に見られる八百万の神々とは対照的に、神は唯一の存在なのだ。神が無数に存在する場合、役割分担が可能になる。たとえば御利益という観点から見ると、学問の神、夫婦円満の神、恋愛の神といった特定の効能を謳う神社や寺が存在する。

しかし、神が唯一であるキリスト教では、こうした役割分担は不可能だ。ありとあらゆる祈りや願いを受け止めなければならない。完全無欠でなくてはならないのだ。

日本神話に登場するスサノオは、ヤマタノオロチを退治した英雄でもあるが、高天原では乱暴も働いた。完璧な存在とは言えない。

 

一方、キリスト教の聖書では、世界は神が6日間かけて造ったと説かれる。そして、そこで起きるすべての出来事は神の計画であるとされる。人間には偶然としか思えない出来事も、実は神が意図した必然として意味を与えられるのだ。

先に挙げた人工妊娠中絶の禁止も、こうした一神教的信仰に由来する。仮に望まない妊娠であったとしても、それは神の計画であるのだから、中絶は神の意志に反するというわけである。

そして、カトリックでは、教皇は全知全能の神の地上の代理人とされる。ある人物が教皇に選ばれるのも当然神の計画のうちであり、したがって、教皇が発した宗教的なメッセージにも誤りはないとされるのだ。教皇の権威と影響力がいかに絶大なものかが分かるだろう。

ローマ教皇教皇がミサを行う祭壇バルダッキーノ(筆者撮影)

なぜユダヤ人迫害を非難しなかったのか

一挙手一投足が世界の関心をひき、また大きな影響を与えてしまう立場にあれば、その振る舞いは穏健なものになるのが自然だろう。だが、『ピウス13世』も『ローマ法王になる日まで』も、いずれも"行動する"教皇を描いている点が興味深い。

『ピウス13世』は、さまざまな政治的配慮から、まだ若く美しいアメリカ人が教皇に選出されたところから物語は始まる。名優ジュード・ロウが型破りな教皇を怪演している。

バチカン宮殿内でタバコを吸い、対立する幹部たちを情報戦で圧倒し、服従しない者には容赦しない。一般社会や他宗教との和解と調和を目指してきた教会を保守的なものへと回帰させる。教皇である自分の顔すら一般信徒やメディアに見せようとしないのだ。

側近にも容赦しない。料理番として身近に仕える老修道女が親しげな振る舞いをすると、形式的な関係性こそが美しく永続すると罵倒する。妹を亡くした修道女が悲しみ嘆くことさえ叱責する。葬儀で泣く者は神を信じていないというのだ。

全知全能の神を信じているのであれば、死も神の計画のうちであり、天に召されたのだから泣く必要はないということだろうか。こうした攻撃性や冷酷さにもかかわらず、ピウス13世は周囲の人々を魅了してゆく。

ピウス13世は架空の人物だが、ピウス12世(1876~1958)は実在した。在位は1939~58年、つまり第2次大戦中という難しい時期に教皇を務めた。

ピウス12世の評価は大きく分かれる。最大の論点は、なぜナチスのユダヤ人迫害をはっきりと非難しなかったということにある。