南スーダンで私たちが思い知らされた国連PKOの「限界」

それでも日本は情勢悪化を認めない…
栗本 英世 プロフィール

人道援助の「限界」

2012年1月2日、ピボール近郊まで進軍してきたホワイト・アーミーは、町への突入を試みた。SPLAは発砲し、数名を失ったホワイト・アーミーは退却した。

こうして、ロウ部族の武装集団がピボールの町に突入し、避難していたムルレ人を殺戮するという最悪の事態は回避されたのだった。これは、UNMISSとSPLAが共同作戦を実施した稀な事例であった。

ピボールの防衛には成功したものの、ホワイト・アーミーが往復路の村々で行ったムルレ人に対する攻撃は阻止することはできなかった。ムルレ側の損害は、死者1000名、掠奪された牛10万頭と言われている。

この攻撃は、国際的にも注目され、UNMISSは市民の保護に失敗したとして批判を浴びた。しかし、すでにみたように、UNMISSは、与えられた軍事力と機動力の範囲内で、できる限りのことはやったのであった。

2012年になると、ジョングレイ州ではムルレ人のデイヴィッド・ヤウヤウに率いられた反乱が活発化し、内戦状態になった。UNMISSが実施しようとしていた、民族間の和解と平和への試みは、後景に退いていくことになる。

UNMISSと南スーダン政府との関係には、当初から非友好的な側面があった。政府要人の一部には、UNMISSは「植民地支配」や「委任統治」の一形態であり、国家主権の侵害であるという認識があったからである。

ジョングレイ州における反乱鎮圧の過程で生じた、および2013年12月に開始された内戦で生じた、SPLA兵士による人権侵害に対して、UNMISSがたびたび警鐘を鳴らしたことは、「内政干渉」と受け取られた。

また、政府は、UNMISSは中立ではなく、リエック前副大統領側、つまり反キール大統領側を支援しているという(UNMISSにとっては根拠のない)批判を繰り返した。

その結果、政府は、2012年10月、2名の人権問題担当者に対する国外追放処分を発表した(1名は猶予された)。2015年6月には、国連次席代表を国外追放処分にしている。

 

2014年3月、政府は、UNMISSが反政府軍に武器を供給していると非難し、首都で反UNMISSデモが行われた。デモでは、ヒルデ・ジョンソンに対する個人攻撃が行われた。

こうしてUNMISSを率いるヒルデ・ジョンソンとキール大統領との個人的信頼関係にもひびが入り、彼女が大統領に面会を求めてもなかなか実現しないという状況が続いた。2014年7月、ジョンソンは苦い思いとともに南スーダンを去った。

2013年12月の内戦勃発後、国連PKO史上はじめて、UNMISSは駐屯地内に多数の避難民を長期的に抱えることになった。そもそも、駐屯地は避難民の受け入れを想定して設計されているわけではない。狭い空間に数万の人びとを受け入れ、生活を維持することは、国連にとってたいへんな事業であった。

駐屯地内の避難民居住区はPoC(Protection of Civilians)サイトと呼ばれている。現在、総数は20万人を超えている。おもな内訳は、首都ジュバに4万人、ユニティ州の州都ベンティウに11万人、上ナイル州の州都マラカル5万人である。

UNMISS駐屯地が、多数の避難民を抱えこんでいることは、人びとにとって国連の旗を掲げた軍隊のいる空間が、数少ない安全地帯であることを意味している。

2013年12月と2016年7月の2度にわたって、首都ジュバでもUNMISSは市民保護という任務を遂行できず、多数の市民が虐殺された。しかし、少なくとも駐屯地に逃げこんだ人びとは保護してきたのである。