なぜ大人になると「生きる意味」を問わなくなるのか

絶望と向き合ったある哲学者の思考
鈴木 祐丞 プロフィール

キェルケゴールがこのように『死に至る病』で絶望を考察するのは、われわれに絶望を自覚させるためである。生の意味をめぐる問いの答えのなさという厳然たる事実をわれわれに思い起こさせ、その事実にしっかりと向き合わせるためである。

では、なぜそんなことをするのか。

それは――ここに『死に至る病』の究極的な目標があるのだが―われわれを絶望から救うためである。キリスト教の信仰によって救うためである。キェルケゴールは、『死に至る病』を読み、絶望を自覚した人に向けて、『死に至る病』の続編である『キリスト教の修練』という本を差し出す。

彼は言う、なぜ自分が生まれて生きているのか、なぜ自分はこのような自分なのか、なぜ自分にこれこれのことが生じたのか、すべては神の意志によるのであり、だから生の意味は、神を信じるところにはじめてもたらされるのだ、と。

 

いつの時代も変わらない

『死に至る病』には普遍的な意義があり、この本は21世紀の日本を生きるわれわれにとっても一読の価値がある。もちろん、この本から先、キェルケゴールが『キリスト教の修練』を差し出すところで、彼と袂を分かつのは(キェルケゴールは同意しないだろうが)仕方のないことだ。

例えばニーチェであれば、キリスト教の信仰などには目をくれず、生の意味のなさをそのまま肯定して生きようとするだろう。あるいはウィトゲンシュタイン的には、生の意味を問うてしまうところに人間の病を見出し、その問い自体を無効化する方向に、病の治療を求めることになるかもしれない。

だがそうだとしても、生の意味をめぐる問いの答えのなさという絶望の淵にわれわれを突き落とそうとする『死に至る病』の持つ意義が、薄らいでしまうことはないだろう。

考えることができる人間。考えることができるから絶望してしまう人間。考えることができるのにあえて考えようとせず、絶望から目を逸らそうとする人間。

結局、『死に至る病』に描き出されているのは、人間のそのような、決して目にしたくはない等身大の姿なのであり、どの時代、どの文化にあっても変わることのない人間の可能性なのである。

このたび講談社学術文庫から上梓した拙訳『死に至る病』は、文庫版としてはおよそ半世紀ぶりの新訳である。

キェルケゴール生誕200年の記念の年である2013年に彼の母国デンマークで刊行が完結した新版原典全集(Søren Kierkegaards Skrifter)を底本として採用したはじめての邦訳であり、近年のキェルケゴール研究(1990年代以降、彼が遺した膨大な量の日記の重要性が、研究者のあいだで広く認識されるようになっている)がもたらした成果を解説に盛り込んでいる。

この新訳を手に、ぜひキェルケゴールの思考の世界へと飛び込んでいただきたい。

読書人の雑誌「本」2017年5月号より