京都の人間を批判する際に使われる言葉の代表的なものが「いけず」だ。
本音では嫌がっていても建前で愛想を振りまき、客人が帰ったあとになって悪口を言う。旅行者や新参者を「よそ者」として扱う。婉曲な表現で人を小馬鹿にする。そんな京都人のパブリック・イメージがメディア上で繰り返し発信され、風刺画のごとく紋切り型の京都人像が確立されているようだ。
和服に懐手でシニカルな京ことばを吐くキツネ目の男。リテラシーの高い読者の皆さまにはおわかりのことかと思いますが、そんな人間は京都のどこを探しても見当たりません。
商売人といえばそろばん片手のトニー谷を連想する、そんな思考停止がいまだまかり通っていることの方が驚くべきこと。伝統的な鉾町や、祇園の中枢部にはいまだそんな旦那衆がいるのかもしれないが、「京都」を代表させるにはあまりにも少数派。
少なくとも京都に生まれ、40年をこの街で暮らす筆者の周りにはそんな「いけず」はおりません。ただし、当事者にとっての「営業努力」や「矜持」が、見方を変えることで「いけず」に捉えられることもある。
「いけず」の表れ方の一つに「一見さんお断り」をあげる方がおられるかもしれない。「他人の紹介がなければ敷居を跨げないなんて、偉そうな」、「お客さまは神さまではないのか」、「儲かるのだからより多くの客に対応できるよう投資するのがサービスではないのか」。
いえ、お客さまは決して神さまではありませんし、一時的な儲けよりも居心地やサービスの内容を重視するのが京都らしいお店なのです。
しかも、そのような態度をとるのはなにも祇園のお茶屋や高級料亭だけではない。そこらの喫茶店で、居酒屋で、レコードショップや本屋でもある種の「一見さんお断り」は存在する。
出町柳「ふたば」の名代豆餅は平日でも行列ができるほどの人気ながら、限られたデパートに限られた数量しか販売せず、本店も売切れ次第早じまい。工場を拡大し、店舗を増やす様子はない。
最近ではその独特な味付けや佇まいを注目され、近年観光に訪れてまで通う人も増えはじめている「京都の中華」。その一つである「サカイ」の冷麺は独特の味で、冬でも多くの常連が注文する名物メニューの一つだ。
これだけ個性的な味であれば、地元のスーパーや、東京の高級食材店などでも展開されておかしくないはずだが、あくまで手を広げることはなく店舗で食すか、本店からの取り寄せのみでしか味わうことが出来ない。
河原町三条の「六曜社」という喫茶店のドーナツは人気メニューだが決して持ち帰りはできない。たくさん売るよりも、来店してコーヒーとともに揚げたてを食してほしいからだろう。