人間の世界は「鈍感な人」をベースにつくられすぎじゃないか

坂口恭平の新政府総理談話(2)
坂口 恭平 プロフィール

布団から起き上がれない

それでもどこかに逃げたい。逃げこみたい。

モルヒネでもあれば、幸せだろう。それでそのまま麻痺して、多幸感に包まれて、致死量に達し、気持ち良く死にたい。

アルコールもいいが、僕の場合はどれだけ飲んでも酔っ払うことができない。苦しい、というのも一つのエネルギーなわけで、とても創造的な状態の肯定的なエネルギーと変わらない。エネルギー保存の法則なのか知らないが、それはとんでもない力で、ちょっとのアルコールじゃ酩酊できないのだ。それよりもモルヒネがあれば、と思う。

しかし、妻も娘も息子もいるし、彼らは死なないでと言ってくれる。言ってくれるのはありがたいが、こういうときは感謝の気持ちなんかもう枯れ果ててしまっている。

すみません、もう耐え切れません……。

それでもやっぱりギリギリのところで、その逃げ方はどうも気が進まない、ということに気づく。どれも「鈍感」になるためのグッズだからである。地震で揺れて、それでびびってすぐに逃げる敏感さが僕の特性なのに、何かで酩酊して、鈍感になってどうする?

とりあえず、右手だけは動く。手首から上だけ。

僕は壁を殴る。壁紙は破れ、石膏ボードに穴があいた。妻が娘たちに見せないようにと、娘が学校で描いた絵を貼った。

いかん。この壁の向こうに、別に逃げ道があるわけではない。舞台裏が見えるだけで、どうせこの空間はハリボテであることを実感するだけだ。

右手は動く。

僕はどうにか下腹部をまさぐって自慰行為にふける。終われば、またむなしくなるのだが、それでもどうにかまだ性欲が残っていることを確認する。自慰行為は1日に3回ほどしてしまう。しかし、その逃避もすぐに終焉を迎える。

 

まだ右手は動く。布団には寝たままだが、それでようやく僕はペンを持ち、ノートに書き込みはじめる。

書くこと。これが死にたくなっているとき、つまり、体の中、脳みその中で地震が起きているときの僕の逃げる方法である。

書くことは、完全に孤独な作業である。人と共同してやらなくて済む。死にたいときに、人と共感しながら作業を行うなんてことは不可能だ。書くことは部屋の中でできる。

さらに布団の中でもできるので、体を起こす必要がない。散歩など、やろうと思っても体が動かないのだ。書くことは倒れてしまった自分が、唯一できる運動であるとも言える。布団の上でのスポーツ。

部屋にこもって、仕事も受けず、人に会う約束もない。こういう状態は、絶望的だ。布団の上の僕はそう感じている。しかし、逆の発想をしてみると、24時間、自分がやりたいと思うことに集中することができるのである。

ただ、このときの問題は、好きなことがまったくなくなってしまうことだ。好奇心がまったく発動せず、なにを見ても灰色がかっている。

僕が開設している「いのっちの電話」09081064666 にかけてくる人も、これに困っていると言ってくる人が多い。

そういうとき、僕はこんな質問をする。

「赤と青だと、どっちが好きですか?」

(→第3回「死にたいときの"逃げ道"の探し方」はこちら http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51478