「昔の家族は良かった」なんてウソ! 自民党保守の無知と妄想

家庭教育支援法案の問題点
広田 照幸 プロフィール

歯止めのない「教育のため」という論理

「教育のため」という善意の介入には、歯止めが利かないうえ、いかようにも解釈できてしまう。食生活も、生活時間も、家族のライフスタイルも、「教育的にいかがなものか」という批判の対象にされてしまいかねない。

お父さんの変わった趣味も、お母さんの友だちづきあいも、朝ごはんのメニューも、わが子に対する話し方も、みんな「教育的に望ましくない」と誰かにレッテルを貼られることになってしまう。

とめどない介入の根拠は、すでに紹介した法案の第2条にある。再掲しておくと次の条文である。

第2条1項 家庭教育支援は、家庭教育が、父母その他の保護者の第一義的責任において、父母その他の保護者が子に生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めることにより行われるものであるとの認識の下に行われなければならない。
第2条2項 家庭教育支援は、家庭教育を通じて、父母その他の保護者において、子育ての意義についての理解が深められ、かつ、子育てに伴う喜びが実感されるように配慮して行われなければならない。

これらの文言は、いかようにも解釈をふくらませることができる。目の前のどこかの家庭に対して、これらを使うと、たとえば次のようになる。

「お宅の○○は、『自立心を育成』する観点から見て、問題ですねー。改めなさい」、「お宅の××は、お子さんに『心身の調和のとれた発達を図る』上で問題がありますよ、××ではなく□□しなさい」、「あなたたちご夫婦は、『子育ての意義についての理解』が不十分ですねー。こんど市の講習があるから、参加してください」、という具合だ。

○○や××には、「朝食のメニュー」から「お父さんの趣味」まで、いろんなものが入りうる。

DVとか児童虐待とかに関しては、暴力や放任という事実認定をもとに、家庭内に介入が許されている。介入が開始されるための構成要件が明確なのだ。

しかし、「教育のため」という論理は、いくらでも水ぶくれが可能だし、それを止める論理がないのである。現場の担当者の恣意的な解釈を止められないのが、この法案の持つ最も危険な性格である。

 

危惧される3つの事態

今回の法案では、まだ「正しい家庭教育」像はごく抽象的で、具体的に細かく提示されているわけではないことは先述したとおりである。

しかしながら、それが具体的に細かく提示され、個々の保護者に押し付けられる危険性はとても大きい。それは3つのレベルで起きてしまう可能性がある。

第一に、国のレベルにおいて、である。この法案がもしも成立すれば、それを具体的に肉付けするための政令・省令や通知が出されるはずである。

そこでは、「正しい家庭教育のあり方」がより詳細に規定され、その方向に向けた「効果的な取組を行うための知見・ノウハウ」が提示されることになってしまうだろう。

国が作成していくであろう解説やパンフレット、手引き、好事例集などでは、あからさまに「よい家庭教育のあり方」を特定の像で描いていくことになるはずである。

第二に、今回の法案には「歯止め」規定がないから、地方自治体のレベルで、「正しい家庭教育のあり方」をより具体的に決めつけていくケースがみられるだろう。

条例やそれをふまえた行政の運用レベルで、「正しい家庭教育」について、具体的中身を盛り込むことがいくらでも可能なのである。

現在すでに、いくつかの自治体で「家庭教育支援条例」が作られている。2012年に大阪市で、大阪維新の会が提出を検討した「家庭教育支援条例(案)」に関しては、伝統的な子育てによって発達障害が防止できるという条文が世間から批判を浴びて条例案は撤回された。しかし、すでに作られた条例の中にも問題があるものは含まれている。

たとえば、「岐阜県家庭教育支援条例」では、「家庭教育」の定義の中に、徳目のようなものが次のように列挙されている。

 この条例において「家庭教育」とは、保護者(親権を行う者、未成年後見人その他 の者で、子どもを現に監護するものをいう。以下同じ。)がその子どもに対して行う次に掲げる事項等を教え、又は育むことをいう。
一 基本的な生活習慣
二 自立心
三 自制心
四 善悪の判断
五 挨拶及び礼儀
六 思いやり
七 命の大切さ
八 家族の大切さ
九 社会のルール

他の自治体の条例における簡素な「家庭教育」の定義とはちがって、この条例では明らかに特定の価値にコミットする形で「家庭教育」が考えられている。

また、今回の法案にはない、「親の責務」とか「祖父母の責務」とかを書き込んでいる条例もある。条例各条にではなく、「前文」において、特定の家族モデルを称揚しているような条例もある。こういうふうに、地方レベルでいくらでも具体的・詳細になってしまうのである。

そう考えると、妙な教育観に憑りつかれた首長とか議員がいる自治体では、「ワシが考える『真の家庭教育』」が、住民に押し付けられることになっていくであろう。
 
第三に、「家庭教育支援」に携わる実務家レベルにおいても、「正しい家庭教育のあり方」をより具体的に決めつけていくケースがみられるだろう。

すでにある条例を見ていくと、地域の人の関与に関しては、NPOなどと並んで、町内会の人も役割が与えられている。町内会のジイさんがやってきて、「お宅の子育ては……」と説教をして帰る、というふうなことが当然起きそうだ。

文科省の検討委員会では「訪問型家庭教育支援」も提唱されている(「家庭教育支援の具体的な推進方策について」2017年1月)。全戸訪問も地域全戸も、具体的な課題を抱える家庭をターゲットとした家庭訪問も、何でもありとなっている。こういう人たちが、「あるべき家庭教育像」を押し付けない保証はどこにもない。

最悪の事態は、自民党政治家が考えるような妄想の家庭教育論と、文科省が検討してきたような、行政と地域の人による網の目のような「支援」(=介入)の仕組みとがドッキングして、全国津々浦々で家庭教育の監視がなされる、という事態である。

それは、日本の社会から、「子育ての自由」が失われる状況を意味している。