「昔の家族は良かった」なんてウソ! 自民党保守の無知と妄想

家庭教育支援法案の問題点
広田 照幸 プロフィール

家庭教育には多様な考え方がある

今回の法案の2番めの問題は、家庭教育の中身については多様な考え方があることが軽視されている点である。

行政が講座を開く際にどういう人を呼んで話をしてもらうのか、あるいは、NPOや地域の人が子育て家庭に関わって支援していく際に、この点が簡単に忘れられてしまうことが危惧される。

次の図は、「子供は幼い時期は自由にさせ、成長に従って厳しくしつけるのがよい」という考え方に対する賛否を、日本と米国、韓国の間で比較した調査の結果である(内閣府「子供と家族に関する国際比較調査概要」)。

子どもを「堕落しやすい存在」としてみる西洋的な子ども観(米国)では、幼い時期には厳しくしつけるべきという考え方が強い。子どもを「まだ分別のつかない存在」とみる東アジア的な子ども観がまだ強い韓国では、幼い子どもに対して自由にさせる割合が多い。

それらに対して、日本では、考え方が割れているのがわかる。「どちらかの考え方が正しい」のではない。どちらでもよいのである。

子育てや家庭教育をどうするべきかについては、この例のように、「正しい答えが定まらない」ものは多い。ある状況で子どもを叱るべきか、励ますべきか。話しかけるべきか、そっと見守ってやるべきか。どうすればよかったのかわからないことが多いのである。

しかし、保守派の教育論でも、リベラルな教育論でも、そこに「正しい答え」をすぐに探そうとしてしまう。

たとえば、文科省の検討委員会では「効果的な取組を行うための知見・ノウハウ」の検討の中で、どういう家庭教育のやり方が望ましいのかが議論されてしまっている。

「家庭教育支援の具体的な推進方策について」(2017年1月)では、「家庭教育に関する多くの情報の中から適切な情報を取捨選択する困難さ」が支援の必要性の説明に使われているから、支援が「適切な」ものを示す、ということになるのは自明視されている。

要するに、多様で正答のない子育ての問題を「これが正しい」と決めつけることになるのである。

 

「望ましい」ことと行政との距離

この法案がはらむ第三の問題は、規範と法との距離がなくなってしまうという問題である。

何かが望ましいということと、それを行政がときには権力的に行なうということとの間には、本来大きな距離がある。それがそこらじゅうで無視されてしまう事態が起きかねないのである。

法哲学者の井上達夫さんの議論を借りて言うと(『他者への自由』創文社)、次のようになる。

一つには、「ある価値観が端的に(誰にとっても)正しいということと、それを受容することを誰も不公平として拒絶できない理由によりそれが正当化されているということと」は同じではない。

私なりにかみくだけば、「郷土を愛することはよいことだ」という命題が一般的にみんなに承認されていたとしても、「すべての人が郷土を愛するべきだ」(=郷土を愛さないヤツは問題だ)という命題は正当化されないということである。

もう一つには、「ある価値観が正しいことと、これが公権力によって強行されるのが正しいことと」は区別されなければならない。いわば、「郷土を愛することはよいことだ」としても、「市民全員が郷土を愛するよう市役所が強制してよい」ということにはならない、ということである。

今回の法案を検討した自民党のプロジェクトチームの事務局長を務める上野通子参院議員(元文科政務官)は、「家庭教育ができていない親は責任を負っておらず、明らかに法律(教育基本法)違反。支援法で改めて正す必要がある」と語ったという(2016年11月3日毎日新聞)。

そこでは、もはや規範と法とが同一視されてしまうような議論になっている。道徳的にふるまえない親は、行政権力によって取り締まりの対象とされるのである。