# 英語

一生モノの英語力を身につける方法は、結局ひとつしかない

もし本気で学びたいなら…
澤井 康佑

本書にも登場して頂いた、日本の言語学界の大重鎮である鈴木孝夫・慶應義塾大学名誉教授は、各言語を比較したうえで「英語は日本人にとって、本当はひどく難しい外国語なのです」と明言しています(『日本人はなぜ英語ができないか』岩波新書)。

異質の言葉が難しいというのは、なにも外国語に限ったことではありません。我々は日本語の「古文」ですら、たとえ古語辞書を使ったとしても、スラスラ読めないまま高校を卒業します。

自分が使っている言葉の、時代がズレただけのものでさえ随分と難しいのですから、日本語とは語彙も文法も全く異なる英語など、とてつもなく難しいものだということが、当たり前のこととして納得できるはずです。

巷には、(1)の認識のもとに書かれた学習書が少なからず見られます。「英語は○語の単語をつなげるだけで話せる」「○○個のルールさえ覚えれば英語は聞き取れる」といったタイトルのものです。

ただ、この種の本は誤った認識を基にしているので、当然のことながら真を突いた作品にはなりえず、「出ては消え、出ては消え」を繰り返しています。

学習者のことを思い、真に力の付くカリキュラムを完成させたいのであれば、教務者は「英語は極めて難しい」という大前提から出発し、そのうえで、その難しさを切り崩すための最良の方法を冷静に考えていかなければならないはずです。

本書では、その前提のもとに書かれた教本、文法書を紹介し、最初の大きな手応えを得るための具体的な方法を示しました。

読解力のとてつもない大切さ

(2)もまた、現状からあまりにもかけ離れた認識です。大半の日本人が読める英文は、簡単なものだけに限られているというのが実際のところです。ちょっとでもひねられたら、途端に読めなくなります。

ほとんどの日本人にとって英語は、「読めるけど話せない」ものではなく、「そもそも読めない」ものなのです。

 

慶應義塾大学の文学部では、入試の際に英和辞典の持ち込みを許可していますが、この事実が上の現状を雄弁に物語っています。つまり、圧倒的多数の高校生・浪人生は、英和辞典を用いてすら、一定以上のレベルの英文が読めないからこそ、上のような入試形態が成り立つのです。

9割以上の日本人は、英文を自在に読めるという力を獲得しないまま高校生活を終え、その後も大きな伸びがないまま生涯を送り続けます。

読解力は全ての基本です。「聞く」「書く」「話す」、これらの3つの根本の位置に「読む」があります。読んで理解できないものを、一瞬で流れゆく音で聞いて理解できるはずなどありません。

また、自分で理解できないものを書いたり話したりすることなどできません。受け取るほうがはるかに楽なのです。これは漢字の読み書きのことを考えればわかります。ほとんどの人は「薔薇」を「ばら」と読むことができ、「憂鬱」を「ゆううつ」と読めますが、これらを書ける人は稀です。

(3)のような発想、つまり、これからは「話す英語」の時代であり、「コミュニケーション英語」の時代だというような発想も、上のことから誤りだとわかります。

話すためにはそもそも、相手が何を言っているかを理解しなくてはなりません。「話す」の前に「聞く」があるのです。またコミュニケーションは、直接の対話によるものだけではないはずです。Eメールや手紙などの書き言葉によるやりとりもまた、紛れもなくコミュニケーションです。

直接の対話の、しかも発信の部分だけを切り取って、「話す!」「話せる!」を連呼し、これこそを「コミュニケーション英語」だと主張するのはあまりにも一面的な発想だといえます。

我々のほとんどは、日常生活において、ネイティブスピーカーと直接のコンタクトを取る必要がありません。一方、大学生が真剣に学問に取り組むのであれば、英語の原典や論文を読めなければなりません。また、多くの社会人が英文契約書や英文メール、英語の資料等を読む必要に迫られています。

つまり、「話す」よりも「読む」に焦点を当て、読解力を養成することに力を注ぐ英語学習のほうが、よっぽど「実用英語」「生かせる英語」だといえます。この点、読解を重視してきた伝統的な「学校英語」は、極めて真っ当なものだといえるのです。

読解に重きを置く伝統的な英語学習を非実用的なものだと否定し、「話す」を過度にズームアップさせた「コミュニケーション英語」が「生きた英語」「これからの時代の英語」だと声高に主張するのは、あまりにも的外れで安易な批判だと言えましょう。