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南スーダン、政治問題を民族問題に変換した「悪魔の選択」

そして国民はお互いに殺し合うことに…
栗本 英世 プロフィール

そして内戦が勃発した

12月14日の土曜日、ジュバで国民解放評議会が開催された。数百名の評議員から構成されるこの会議は、SPLMの意思決定機関のひとつである。

基調演説のなかで、キール大統領は、リエック副大統領の動きは、国の統一と独立を危うくするものであり、決して認めることはできないと明確に述べた。副大統領とその一派は、15日の評議会を欠席した。

その日の夜、SPLA本部で、大統領警護隊同士の銃撃戦が勃発した。大統領警護隊は、「タイガー師団」といういわば近衛師団的なエリート兵団の将兵から構成されている。

銃撃戦は、ディンカ人将兵とヌエル人将兵とのあいだで行われた。本部の銃撃戦は、他の兵営に飛び火し、16日も続いた。大統領民兵がジュバ市内に投入されたのは、このときであった。

16日から18日にかけて、大統領側のSPLAと協力しつつ、大統領民兵はジュバ市内の各地でヌエル人の住居を襲い、その場で射殺するか、数十名から数百名を1ヵ所に集めて殺戮したのだった。

死者の正確な数は現在に至るまで不明である。推定数には、最低で1,000名、最高で2万人と、おおきな幅がある。しかし、ヌエル人の一般市民を標的にした、組織的で大規模な殺戮が行われたことは事実だ。

当時のジュバで、各国の在外公館を除くと、生命の安全が保障される唯一の場所は、国連PKOの駐屯地であった。駐屯地には、ほとんどがヌエル人の数千名が殺到し、国連は門を開けて、避難民を受け入れる決断をした。

この大統領民兵によるヌエル市民の大量虐殺は、第2次内戦中も前例のなかった、南スーダン人による、南スーダン人に対する一方的殺戮であった。この虐殺こそが、内戦の発火点になったのである。

もし、2013年12月にジュバで発生した武力衝突が、大統領警護隊内部の戦闘だけで終息していたら、おそらく内戦という事態には発展していなかっただろう。

 

ジュバの殺戮は、ただちに各地に飛び火した。

ジョングレイ州の州都ボルでは、18日にヌエル人の師団長、ピーター・ガデット将軍が、配下のヌエル人将兵を率いて反乱を起こし、ボルを占領した。

21日には、ユニティ州の州都ベンティウで、同じくヌエル人の師団長、ジェイムズ・コアン将軍が反乱を宣言した。

続いて、上ナイル州の州都マラカルでも反乱が生じ、上ナイル地方3州の州都は、反大統領側の手におちることになった。

3つの州都では、ジュバの虐殺に対する復讐として、ヌエル人の将兵がディンカ人の将兵と市民を殺戮した。当然、ディンカ人側は、これに対する報復攻撃を行った。こうして、際限のない報復のサイクル、暴力の悪循環が開始されたのだった。

ジュバにいたリエック副大統領派の主要政治家や将軍たちは、逮捕・拘禁されることになるが、副大統領自身は逃亡に成功した。しかし、彼の住居は大統領派の軍隊に攻撃され、住居内に居残っていた数十名が殺戮された。

リエックは、自らの反大統領の運動を、スーダン解放運動/解放軍=野党派(SPLM/SPLA-IO)と称することになった。