『遺体』『「鬼畜」の家』など、圧倒的な取材料と筆力で今の日本社会の暗部を書き続ける石井光太さん。そんな彼に「自分もこういうノンフィクションをやってみたい」と思わせた本を10冊紹介します。
自分もこういうことをやってみたい、と思った本を1位に挙げました。つまり『もの食う人びと』のように、誰も見たことのないものを見て、感じたこと、考えたことを書いてみたいと。初めて読んだのは高校時代で、紀行文が文芸作品として昇華していることに、まず衝撃を受けました。
さらに、ノンフィクションとしては珍しく、カタルシスがあることに驚いた。ただ、初出が新聞連載なので、一篇が短いんです。この筆致でもっと長く書いたら面白いんじゃないかと、自分の進むべき方向性が見えてきました。
僕は大学卒業後、就職をせずに、もの書きになったから、どうして新聞社などに就職しなかったのか? とよく聞かれるんです。理由は単純で、どこか上から目線のところがあるジャーナリズムに興味がなかったから。僕がやりたかったのは辺見庸さんのように、現地の人たちと同じ目線で現実と向き合い、等身大の世界を物語として描くことでした。
『もの食う人びと』が、ものを書く上での視点や方法論について目を開かせてくれた本ならば、『芽むしり仔撃ち』(大江健三郎)は、文体に圧倒された本です。
髪をガッと掴まれて、ラストまで強引に引きずられるような読書体験でしたね。学生時代は僕も髪があったんです(笑)。引きずっていくのは文体、文章の力。ブルドーザーのような文章だと、僕は思いました。こういう文章を書くにはどうすればいいのか、ずっと考えてきましたし、いまも考え続けています。
大江健三郎の描写で好きなのは、突然ロマンチックになるところ。この本では、子供たちが山の中で無邪気に遊ぶシーンが出てきます。ただし彼らは、社会からつまはじきにされ、非情にも、村に置き去りにされているという現実の中にいる。
要するにグロテスクな状況下における楽園的な描写だからこそ、ただごとではない煌めきがあり、重みがあるのです。
大江さんのこうした表現は、例えば僕がインドのストリートチルドレンを取材し、彼らが遊ぶ場面を書くときに、強く影響を受けました。
そもそも文章に興味を持つようになったきっかけは、3位に挙げた『春琴抄』です。春琴に仕える佐助が、春琴のために盲目になろうと、自らの目を針で突き刺す場面があります。この描写を読んだとき、どんな映像も文章にはかなわないと唸ったんです。それまでは映像に惹かれていたのですが、この作品によって、文章に転向しました。
谷崎潤一郎は、とりわけ視覚描写にすぐれた作家です。作家によって、五感のどこの描写が得意かは違うんですね。開高健さんは断然、耳(聴覚)です。
『オーパ!』を読んでわかるように、ガリガリ、ボリボリ、という描写が自然に出てくる。言葉が音として聞こえてくる文章です。辺見庸さんは味覚だし、村上春樹さんは、音楽がよく出てくるので聴覚の印象があるかもしれないけれど、それ以上に、味覚が強いと思います。