日本国民のための「PKO入門」〜平和とは何か、国際協調とは何か

「PKO法」の25年間と今後の課題
篠田 英朗 プロフィール

法律と現実との大きなギャップ

実はPKO法は、PKOだけでなく、人道救援、選挙監視、物資協力を行う際の根拠法になる。それらの分野の活動実績は、PKOに対する従事よりも、豊富である。

つまりPKO法の中核であるPKOを通じた国際平和協力は、必ずしも最も頻繁に行われているというわけではない。

PKO法を通じて自衛隊の部隊派遣がなされたのは、1990年代初頭のカンボジア、2000年代の東ティモール、2010年代のハイチおよび南スーダンだけである(なおイラクへの派遣は「イラク特措法」にもとづくものであり、イラクに自衛隊が駐留した間、PKO法を通じた自衛隊の派遣はむしろ回避されていた)。

なぜPKOへの従事が限定的なのかと言えば、もちろんそれはPKO分野において法律と現実とのギャップが大きく、派遣が難しいからである。

このギャップは、PKO参加五原則を南スーダンのような国に適用することの困難という形で、顕在化する。

 

たとえば、紛争当事者間の停戦合意の存在が、五原則の一つだ。そのため、南スーダンに「衝突」ではなく「戦闘」があると、紛争当事者間の停戦合意が崩壊している――つまり参加五原則が崩壊していることを意味しかねない――と懸念される事情が生まれる。それで国会が紛糾することになる。

しかし仮に南スーダンに戦闘があったとして、それによって自動的に自衛隊の派遣が違法になるという考え方は、憲法論とも離れた水掛け論でしかない。自衛隊が戦闘に関与して初めて憲法論になるはずだ。PKO参加五原則の抽象度が高すぎるのである。

もともと南スーダンでのPKOミッションは、南スーダンの独立にともなって新しい国づくりを支援するために開始されたものだ。停戦合意などは、最初から存在していなかった。

いったいなぜPKO法は、このような現実との間にギャップを抱えているのだろうか。国内の憲法解釈の事情が一つの理由である。そして1992年当時の国際社会の環境の時代的制約が、もう一つの理由である。

国内の憲法解釈上の制約は、よく知られている。違憲組織である自衛隊が、武器を持って海外に行くのは二重に違憲状態だ、と考える憲法学者がいる。そこで日本政府は、ある特殊な環境であれば自衛隊の派遣は合憲だが、そうではないと違憲になる、という複雑な立場をとる。

本来はコントロールできるはずのない外的環境の性格、つまり紛争当事者間の停戦合意が維持されている云々といった要素の有無によって、自衛隊派遣が合憲になったり違憲になったりする、という奇妙な見解を示している。

ちなみに私のような専門を持つ者の多くは、国連安保理の決議にもとづいて行われる国連の活動に参加することが、憲法9条の日本の「国権の発動としての戦争」になるはずがないと考える。だがそれは政府見解ではなく、曖昧かつ複雑な憲法解釈こそが政府の見解である。結果として、PKO法の運用は、著しく曖昧かつ複雑なものになった。

もう一つの制約は、1992年当時のPKOの国際的な理解にかかわる。PKO法は、冷戦時代の国連PKOに関する研究を下敷きにして策定された。古いPKOをモデルにしているので、成立してすぐに時代遅れになってしまったのである。

ただし国連PKOが一夜にして変貌を遂げた、というわけではない。冷戦時代においても、たとえばコンゴに展開したONUCのように、「冷戦型PKO」ではない活動もあった。しかし92年当時は、ONUCのような活動は、度外視すべき特殊な例外だと信じられていた。

92年当時、国連PKOは「憲章6章半」の活動だと言われていた。ちなみに調停などの平和的な手段が憲章6章に定められた活動で、軍事的手段も含む強制的な措置が憲章7章で定められた活動である。PKOは、純粋にどちらかに属するわけではない活動なので、「6章半」の活動だと言われていた。

しかし、つまり「憲章6章半」とは、PKOの性格を説明するための描写にすぎず、いわば一つの比喩でしかない。

ところが92年当時の文献を見ると、もともとは描写であったにすぎない「6章半」が、現実を規定する法律条項のように扱われていることがわかる。つまり92年には、およそPKOなら6章半の活動であるはずだ、という思い込みが強く存在していた。しかしそのような考え方では、今日のPKOを理解するのは、著しく困難である。

そもそもPKOは、憲章24条で定められた安全保障理事会の特別な権限にもとづいて設定される活動である。具体的な活動の根拠は、憲章6章であるかもしれず、7章であるかもしれない。「PKOは6章半」などという前提は、実際には存在しないのである。