日本国民のための「PKO入門」〜平和とは何か、国際協調とは何か

「PKO法」の25年間と今後の課題
篠田 英朗 プロフィール

成立当初に感じたPKO法の息苦しさ

私は、PKO法にもとづいて海外派遣された最初の文民職員41人のうちの1人である。

私は、学部から大学院修士課程の時期に、「難民を助ける会」のボランティアとして、国内の難民支援活動や、海外でもクルド難民、ソマリア難民、カンボジア難民支援事業などに従事した。

その経験を活かし、カンボジアにおける国連PKO実施の選挙に携わる要員として、「難民を助ける会」から日本政府に推薦してもらった。PKO法を通じて日本政府に雇用してもらった上で、国連PKOミッション(UNTAC)に派遣される形式であった。

当初、文民選挙要員は50人が選抜され、全員で研修も受けた。ところが邦人国連ボランティアの中田厚仁さん、そしてPKO法にもとづいて派遣された警察官の高田晴行警部が相次いで殉職され、日本国内でもカンボジアの治安情勢の悪さが大々的に報道されるに至り、辞退者が続出し、41人が派遣されたのであった。

「なぜカンボジアに行くのか」、「政府に騙されているとは感じないか」、「自衛隊の海外派遣は違憲だとは思わないのか」といった雑誌やテレビの質問を、無数に受けた。

NGOボランティアとして、イラン・イラク国境地帯や、ソマリア・ジブチ国境地帯などに出かけていた私には何も言わなかった両親も、カンボジアのPKOに行く前には、親戚や知り合いに色々と言われて、相当に参っていた。

皆がカンボジアについて語っていながら、実は誰もカンボジアについて語っていないという状況が、当時の私にはとても不思議であった。

 

選挙期間中の私の仕事は、投票所責任者というものだった。

「投票所」とは、当時はまだ世界最貧国の一つだったカンボジアの田舎の土の床の小学校のことである。そこで私は現地スタッフと一緒に寝泊まりし、非常食をとり続けながら、何日も勤務した。

国際職員の私は机の上で寝る高待遇だったが、現地スタッフは土の上で寝て、日が昇ると裏手の池で入浴するという環境であった。国連と日本政府の両方から防弾チョッキを支給してもらった程度で、特別な安全対策はなかった。「ポル・ポト派」どころか、単なる強盗の襲撃に遭っても、ひとたまりもなかっただろう。

ある日、自衛隊の宿営地で泊まらせていただき、日本食を堪能させていただいてから、防弾チョッキを持って選挙勤務地に向かった。その際の見送りの自衛隊員の方々の表情が一様に硬かったのを、よく覚えている。

その後、自衛隊の方々は、われわれ邦人投票所勤務者のために、PKO法への抵触すれすれで、「情報収集」名目で「巡回ではない巡回」を行った。そしてすぐに国会で問題にされたそうである。

その種の「駆けつけ」をしないようにしながら必要に応じて現実に対応する活動を行う自衛隊の方々の努力は、形を変えて、東ティモールでも、コンゴでも、発生した。すべてはPKO法の枠組みのためであった。

カンボジアにいた当時24歳の私には、その種のPKO法の息苦しさが、その後25年も続いていくものだとは、想像もしていなかった。