自分の労働に納得、諒解できるかどうかは、どこに境界線があるのだろうか。それは自分の労働が「職人的」におこなえているかどうかである。

ここでいう「職人的」とは、最終的につくりだされていくものが自分の目に見えていて、それをつくりだすプロセスがわかっている。さらにこの過程での自分役割が有益なものとして理解され、その役割をこなしていくために自分の経験や能力が有効に働いていると感じられるということである。

実際、伝統的な農民や職人、商人たちは、そのようなかたちで自分の労働をおこなってきた。

とともに今日の企業のなかにも、そういう労働のあり方を内蔵していることがないわけではない。だからこのような分野では、長時間労働が疲労はもたらしても、苦痛にはならないということも生じる。

本当の「働き方改革」とは

さてこのように考えていくと、「働き方改革」が、時間管理だけであってはならないということがわかってくる。

もちろん現在の状況では、子育てもできないような長時間労働がおこなわれたり、長時間労働が精神的な圧迫を与える状況が生まれている以上、残業規制なども必要であることはいうまでもない。安心して働くためには、低賃金な非正規雇用を減らしていく努力も重要である。

だがそれは、時間管理を徹底することでしかないのである。

労働時間を減らして余暇をふやすというのも時間管理だし、労働時間を減らそうとすれば、おそらく多くの企業では、労働密度を高めようとするだろう。すなわち、就労時間の時間管理が徹底されることになる。それでは労働の苦役度を上げることによって、労働外の時間を増やすことにしかならない。

私たちの最終的な課題は、労働を人間的なものに変えることだ。時間管理でしかないような労働からは、人間的な労働は生みだされない。

だからいまそのことに気づいている人たちは、時間管理の世界から自分の労働を解放しようとして、職人的な労働が可能な世界に移動しようとしている。

それはときに農民的な世界であったり、伝統的な職人の世界、小さなベンチャービジネスやソーシャル・ビジネスの世界だったりするのだが、そういうものに移動する動きがいまでは日本中で起こっている。

それらは一面では低収入な労働や長時間労働をもたらしたりするのだが、そんなことよりも労働が時間管理でしかないことから自由になることの方が、そういう人たちにとっては重要なのである。それが彼らや彼女たちの「働き方改革」である。

社会的正義に反するようなことは変えなければいけない。だが「社会的正義に反すること」のなかに、時間管理でしかなくなった労働をどう改革するのかということをふくめなければ、根本的な解決にはならないのである。