人生の楽しみは労働以外で

さらに次のことも付け加えておかなければならない。

20世紀に入るとアメリカで、生産管理の方法として時間管理という手法が広がっていく。

産業革命自体は、すでに18世紀にイギリスで起こっていたが、このときからすべての労働が単調労働に変わったわけではなかった。とりわけ金属機械などの分野では、工場のなかの生産は職人的な労働によっておこなわれていたのが現実だった。

ところが20世紀になると画期的な手法が「発明」される。

職人的な労働の内容を分解し、単純労働を横につなぐことによって、熟練の職人と同じ生産ができる方法が生まれたのである。

その創始者はテーラーやフォードであったが、労働が単純化されればその労働のスピードが最大になるように管理することができる。このことによって労働の効率性を最大化させることができるようになった。

労働が「何かをつくりだすこと」から、その作業に従事する時間に変わったのである。経営者たちは時間管理をとおして、労働を統制することができるようになった。

ところがこの変化は労働者たちには不評だった。自分の腕に誇りをもって働いていた人間たちが、管理された時間労働をするだけの人間になってしまったからである。

この不満を解消するために、20世紀前半のアメリカでは余暇という考え方が出てくる。

たとえ労働は苦役でも、そのことによって高い収入を得て余暇を楽しむ。それが人間的な生き方だという提案である。労働のなかにあった誇りや楽しみを奪い去る代わりに、労働の外に楽しみをつくりだそうとしたのである

私たちが直面しているふたつの課題

現代社会はこの変化の延長線上につくられている。

退社後の時間や休日、夏休みなどを楽しむ。さらには家を購入したり車や電気製品などを買いそろえる。子どもたちを進学させる。そういうところに人生の楽しみを設定し、労働自身の楽しさはあきらめさせる。

ゆえに、働いても労働外の楽しみが実現できないような低賃金や長時間労働がおこなわれることは、社会的正義に反することととらえられるようになった。

とすると私たちは、ふたつの課題を背負っていることになる。

ひとつは現実がそうなっている以上、労働外の楽しみの実現を阻害するような待遇、働き方は改革されていかなければいけないという課題である。

だがそれは根本的な解決だろうか。もうひとつ、労働が時間管理としておこなわれるという非人間性の問題があるはずである。

納得できる労働を3時間することより、諒解できないままに1時間の労働をする方が精神的な負担が大きいといったことはしばしば起きうる。

そしてこの諒解できない労働が発生する原因は、その労働がどういう関係のなかでおこなわれているのかに起因している。

納得できる関係として労働がおこなわれているのなら、その労働は働きがいにもなる。しかし諒解できないのならそれは苦痛、苦役であり、この問題が古くは産業革命の時代から、20世紀に入ると幅広い分野で発生していたのである。