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日本史上最大の愚挙!? 秀吉はなぜ「朝鮮出兵」を企てたのか

東アジアいがみあいの起源
岡本 隆司 プロフィール

背後にあるもの

鄭芝龍・呉三桂は実名だし、和藤内の称号「延平王(えんぺいおう)国性爺(こくせんや)鄭成功(ていせいこう)」も、「国【姓】爺」をあえて違う用字にしてあるのを除けば、実在の人物であった。日本人の血を引いていたのも、事実である。

もとよりストーリーは、史実そのままではない。完全なフィクションといってよい。

しかし「鎖国」のもと、海外に渡航できなくなった日本人の血を引く英雄が、列島・大海・大陸を股にかけて大活躍する物語は、スリリングかつエキゾティックで、泰平の安逸に慣れた人々に大当たりをとった。

興行・エンターテインメントの評価としては、それ以上に何かつけくわえることはない。今日の、あるいは別の立場から、作品の品隲(ひんしつ)におよぶ必要もないだろう。史実にそぐわぬデタラメだとか、野暮なことをいうつもりもない。

ほんとうの史実は、本書でじっくり叙述する。いな、しなくてはお話にならない。フィクションたるゆえんは、そこで自ずとおわかりいただけるはずである。

ただここでそのフィクションを長々と紹介したのは、こうした話の作り方、またそれが受けた、というところに、当時の日本人のメンタリティ、物の考え方がよくあらわれているからである。それ自体、歴史として考えるべき余地がある。

判官びいき、貴種好みというのは、あるいは日本人固有の心情なのかもしれないし、おそらく今も共通することだろう。

同じ筋立てでみるなら、「韃靼王」という悪役、明朝の復興という大義。こちらがむしろ当時の価値観なのであり、ほぼ同時代の東アジアで共通したものである。

いわゆる「中華思想」「華夷思想」そのままであり、それを日本人、ふつうの庶民もまた共有していたのである。

 

「華夷変態」

庶民でさえそうなら、知識人はなおさらだろう。

「国性爺合戦」から半世紀前に出た本に、「華夷変態」と名づける書物がある。いわゆる「唐人風説書(とうじんふうせつがき)」を集めたものである。

「唐人風説書」とは、17世紀のなかばころから、来航する唐船の乗組員から中国情報を系統的に収集し、記録した江戸幕府あて報告書のことであるから、「華夷変態」とは要するに、海外情報の資料集成にほかならない。

では、なぜこんな名前がつくのか。この中国情報集成に「華夷変態」と命名したのは、幕府おかかえの儒学者・林春齋(はやししゆんさい)であった。延宝2年(1674)かれがしたためた序文の一節に、明朝が滅んだことを述べたうえで、以下のように記す。

韃虜(だつりよ)たる清朝が中原をわがもの顔に支配している。これは中華が夷狄(いてき)に変わりはててゆくありさまにほかならない。……最近、呉・鄭が各省に檄文をまわして、恢復(かいふく)の挙をおこしており、勝敗はまだわからない。夷狄が中華に変わってゆくということになれば、これはたとえ地域を異にしても、快事ではあるまいか。

「呉」は呉三桂、「鄭」は鄭成功一族のことをさす。まさしく同時代におこっていた三藩の乱・鄭氏の活動に触れたうえで、「韃虜」「夷狄」たる清朝がくつがえされる事態の招来を、異邦人・傍観者の立場から、欣快(きんかい)だと評した。

「華夷変態」とは、明朝・漢人の「中華」復権の願望を託した書名なのである。いかめしい儒学の教理とリラックスした町人の娯楽とのちがいこそあれ、「国性爺合戦」とまったく同じ着眼点・思考法だった。

それは「夷(い)」にすぎないはずの日本人が、自らを「華(か)」にオーバーラップさせ、明朝・漢人と同一視した、ごく自己中心的な心情・論理にほかならない。当時、自分こそ「華」であれかし、という考え方が風靡していた。