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日本史上最大の愚挙!? 秀吉はなぜ「朝鮮出兵」を企てたのか

東アジアいがみあいの起源
岡本 隆司 プロフィール

「唐入り」という発想

秀吉の「朝鮮出兵」が「近世」の日本をつくりあげた高度成長のたまものであったとすれば、日清・日露の戦役は日本の「近代」化の成果である。やはり力量の増大がその条件になっていることはまちがいない。

列島の発展は戦後もつづいて、なお経済大国の地位を保っているのだから、半島と大陸が警戒を抱くのも、その立場からすれば、無理もない話に思える。

そうみると、やはり疑問が浮かんでくる。なぜ列島の人々は、力をつけたら「唐入り」をくりかえしたのだろうか。

秀吉ひとりにかぎっては、愚挙でよいかもしれない。しかしそれに失敗し、愚かだと痛感したはずの列島の人々が、なぜあらためて「唐入り」しなくてはならなかったのか。

そこに至るまでに、長い時間を経過したのはなぜか。三百年のあいだに、いったい何があったのか。

 

疑義百出・回答不能の観がある。しかしひととおり見通しがつかないと、またぞろ愚挙をくりかえすやもしれない。

そもそも「唐入り」、列島が半島・大陸を凌ごうと殴り込みをかける、という発想そのものが、実は尋常ではない。列島の歴史・文明が半島・大陸からはるかに落伍したものであり、その国家・文化の形成が大陸・半島に多くを負ってきたことは、歴史の常識である。

そうした彼我の関係を自覚していれば、おいそれと「唐入り」という行動にならないはずなのだが、史上の現実はちがっていた。だとすれば、少し同時代のありようをながめる必要があろうか。

「国性爺合戦」

日本の近世は町人文化がいちじるしく発達した時代、最も先進地域だった上方(かみがた)が、いちはやくそれを開花させた。いわゆる元禄時代である。

その18世紀はじめ、エンターテインメントの花形といえば浄瑠璃、その代表的な作品に「国性爺合戦(こくせんやかつせん)」という戯曲がある。作者は希代のライター、近松門左衛門なのはいうまでもない。

「国性爺合戦」は明(みん)人を父に、日本人を母に持つ和藤内(わとうない)がヒーローである。そのシナリオは以下のとおり。

* * *

謀反人・李蹈天(りとうてん)が韃靼(だつたん)王と結んで、中国を統治していた明朝を滅ぼした。明の忠臣・呉三桂(ごさんけい)は皇子を救い出し、九仙山(きゆうせんざん)にかくまい、皇子の妹・栴檀(せんだん)皇女は海に逃れる。

平戸に漂着した栴檀皇女をみつけたのは、漁師の老一官(ろういつかん)。この人物は二十数年前、明帝の命をうけて日本に渡った鄭芝龍(ていしりゆう)である。日本人の妻をめとり、この地で暮らしていた。皇女と会った夫婦と子の和藤内は、明朝を復興するため、中国に渡る。

和藤内は腹違いの姉・錦祥女(きんしようじよ)の夫にして韃靼の将軍、甘輝(かんき)に協力を求めるため、獅子ヶ城(ししがじよう)へ向かった。その途上、竹林に迷い込んだ和藤内は、猛虎を退治したことで、狩猟に来ていて出くわした韃靼兵を手下にしてしまう。

和藤内が獅子ヶ城につくと、甘輝も錦祥女が死を賭した説得に応じて同心し、龍馬ヶ原で呉三桂と再会する。かくて一同は韃靼の討伐に向かって、南京(ナンキン)を攻撃した。ついに敵を倒し、皇子を位につけて明朝を再興したのである。

* * *

めでたし、めでたし、で終わるこの波瀾万丈の物語、正徳5年(1715)に大坂竹本座で初演があってから、17ヵ月の続演というロングランの記録を打ち立てた。

今も一部は、歌舞伎でやる演目だというのだが、藝能・演劇にうとい筆者は、ひととおり筋立てを紹介しながらも、そのみどころや縁起など、まったく知らないことばかり。

そんな朴念仁(ぼくねんじん)でも、わかることがひとつある。この物語が東アジアの史実をふまえたものだということである。